研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学 思想 研究 ――
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Category: < 社 会 理 > | 2008.02.04 Mon 08:00

自分を知るための社会愛

自分を知るには、自分を知るための社会
人間を知るには、人間を知るための社会
人生を知るには、人生を知るための社会
目的を知るには、目的を知るための社会

本当に自分を知るには、自分だけでやろうとしてもできない、本当に自分を知ろうとする人たちで、自分を知るための社会を作ろうじゃないか。
先ず、自分が、本当に自分を知ろうとする人に成って、そういう人が寄って、そういう社会を作る。
自分を知りたいから、自分を知ろう知ろう、そうではなくて・・・、

自分を知るためには、先ず、そういう社会を作ることが先だ。そう得心した人たちの気持ちの現われ。
社会を作るとは何か事柄をやることでもない。

そういう社会にしよう、そういう社会を作ろうとする人の結束・気持ちの現われ、生活行動・社会活動・・・。
社会の必要性を会得し、そういう社会を大切に育てようという気持ちの人。

社会に育てられ、社会を育てようとする、
社会愛から産まれた社会、
社会を愛する喜びで営まれる社会。

Category: < 研鑽の理 > | 2008.01.27 Sun 18:00

(2008.1.26) 発表内容の骨子

社会と人間
人間がより良く生きるには社会の要素が不可欠
社会と人間の密接な繋がりに異論を唱える人は少ないと思うが、
果たして、実際の日常の生活行動、思考や発想は?
社会のことをおいておいて、より良く生きようとしてるのではないか
人間のことをおいておいて、良い社会にしようとしてるのではないか
人間が変われば社会も変わるとの理を唱えて(これは間違いではないが)人間の内面にだけ力を注いでいられるのは、この密接な繋がりを実は知らないからだと思う。

社会観と人間観
それは、人間というものの捉え方からそうなっている
それは、社会というものの捉え方からそうなっている
周囲から受けたもので形成されている社会観・人間観
人間をどう捉えているか、社会をどう捉えているか
自分の中にある人間観・社会観に目を向ける。
それを欠いていては
より良く生きよう、良い社会にしようとしても、自分の中の人間観・社会観からのものにすぎない。
自分の中にある人間観・社会観に視点が向くと、
実際に、人間とは、社会とは、本来・本質は? との指向が出てくる

人間について
人間とはどういう生き物か
他の動物との違い・・・脳の働き
他の動物と同じように、体験・記憶・情報蓄積・それらを活用して生活行動する。
更に、人間の脳には・・・
 固定断定する働き と 無固定探究する働き


自分を知る(自覚を養う)研鑽に始まる人間の脳の働きと、固定停滞のない人間生活、ひいては、それを支える(無固定探究)社会システムとが、密接不離の繋がりで実現していく、一筋道が見えてくると思う。

Category: < つれづれ > | 2008.01.17 Thu 13:00

主体と自立

宇 宙
自 然
社 会

⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
行 為
言 動



人は無数のものを受けて存在している。
受けたものを吸収し、周囲のいろいろな影響を受けて受けたものによって、その人はできている。
人は受けるということについていろいろな捉え方をする。「してもらった」とか「やられた」という捉え方もある。(受けるというのも人間の捉え方)
「太陽に・・・してもらった」「雨に・・・された」 という捉え方もあるかな?

資本主義経済観念その他、人間よりの捉え方による社会通念を、
幼い頃から繰り返し繰り返し植え付けられた為なのか、
あたかもその捉え方が実際であるかのように機能させている。
 管理する側と管理される側   雇う側と雇われる側
 教える側と教えられる側   やってあげる側とやってもらう側
 禁止する側と禁止される側   義務や責任を負わせる側と負わされる側
 用意する側と用意される側   サポートする側とサポートされる側
・・・などなど、このような[頭の中の構図]の人が多いのではないだろうか。
仕事も暮らしも会社や組織も、このような[頭の中の構図]で捉えているのかもしれない。その人の言動・発想によってうかがい知ることができる。
「やってもらう」とか「サポートされる」という時の主体は誰なのか、誰が何をするのか。

仕事を任す
研鑽会を用意する
社会・物・人の行為
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
これらを
受けた
自分は
⇒⇒
⇒⇒
⇒⇒
どうするのか
何をするのか
主体は自分にあるか

「任された仕事をやる」「用意された研鑽会に参加する」という場合、
その主体はどこにあるか?
主体が「任す人」「用意する人」ならば、「任される自分」「用意してもらう自分」は従体か?
これは理屈の解釈ではなく、自分の頭の中の構図、捉え方はどうなっているかという自己観察のテーマだと思う。
ここでいう[人]とは、大臣も乞食もない凡ての人のことです。
どの人も受けたものでできていて、それを元に生きて暮らして活動している。
このことは誰もが共通で、果たして[頭の中の構図]はどのようになっているかということ。
それによって生き方・考え方・行為も大きく違ってくる。
政治・機構・運営や理念・法則・あり方も「人の考え・行為」以上でも以下でもない。
それらを受けた自分の考え行為も「人の考え・行為」以上でも以下でもない。

Category: < 具現方式 > | 2008.01.05 Sat 22:00

研鑽コミュニティを・・・

理念・・・・・真理に即応しょうとする人間の観念のあり方
具現方式・・・理論を現実に具体化し得る方法

研鑽コミュニティ は、「理念の究明」と「具現方式の考案」という研鑽によって産まれたもの。
誰にも分かり易く、誰にもやれる方法。
失敗や、やり損ないがなく、やった分だけ、研鑽社会ができていく。
「研鑽コミュニティをやる」ということは、研鑽コミュニティのサポートを活用すること。
そして、自分が活用しながら、もっともっと多くの人が活用できるようにすること。

「研鑽コミュニティ」の中身や成り立ちに関心ある人は、研鑽ライフセンター(スタディサポート)を活用して、どこまでも深く調べることができる。
自分を知り、人生を知り、社会を知り、もっと、研究意欲のある人は、人間理、社会理、産業理へと、研鑽コミュニティの原理を究明する研究分野へ進むことができる。
(学び調べたことを実社会へ生かそうとする人が殆どだが、中には、更に
 学び調べる方へ進んで、大学院・研究室へという進路もある。)

コミュニティパンフレット
コミュニティマップ



例えば、ヤマギシに関係している人々へ
 自分のことは自分で、あるいは自分一家で、仕事や住まいのこと、家族や将来のことを考えてやって行かねばならないと思っている人が多いでしょうが・・・、
ヤマギシのように集団生活でなく、一体生活、研鑽生活できる所があるんですよ。
仕事の相談、住まいの相談、家計や家族や将来の相談もしながら、暮らせる所があるんですよ。
それでいて、いつでも、自由選択で参加できる研鑽機会もあるんですよ。
頼ったり縛り合ったりしない、自由な、本当の研鑽生活・一体生活を目指してやってる所があるんですよ。
規約も誓約も要らない、関わりたいだけ関わればいい、研鑽したいだけすればいい、一緒にやりたいだけやればいい、同調の人々がただ協力し合って暮らすコミュニティがあるんですよ。
 一人一人にパンフレットを贈りたいな。手渡したいな。

Category: < つれづれ > | 2008.01.04 Fri 20:00

書き遺しておきたいな

八木さんのブログ
「ヤマギシから東京そして鈴鹿へ」 を読んで・・・

一個人の記録・記憶にとどまらないもの。
ここで刻んでいる歴史の一コマ一コマ。
個人史であって、社会化活動史。
これをやろうとしている一人一人の、その一コマ一コマの集積が、今日の実態、後代へ遺せるもの。

す ず か ・・・ この3文字(2文字?6文字?)が、
各人にとって、この運動にとって、キーワードになると思う。

「鈴鹿」に至るまでのこと、
「鈴鹿」に来てからのこと。
あの時にあんなことがあった。
あの時にこんなことを考えて、こう動いた・・・等々。
一人一人の記憶・軌跡・記録しておいて欲しい。

「人生を知るための研鑽会」で聞いてもらった K さんとの対談で、
僕自身の内面の歴史・・・
1999年11月 杉本さん亡くなるまでのこと、亡くなってからのこと、
2000年3月~社会課程研鑽会~実践の書研~鈴鹿・・・そして、2001年以降
大ざっぱだけど、まとめて話ができたこと、凄く大きいと思っている。
鈴鹿に来てからも、毎月毎月、自分の中で激動がある。

誰の中にもあると思う。
一人一人にドラマと歴史があると思う。
書きとめておいて欲しい。

Category: マイプロフィール | 2007.12.31 Mon 23:55

2007年 歳の瀬に

研究所の面々、顔を見合わせ、「丸7年だねぇー」
「ここで7年やってきたということだね」
「まだ7年か、というのもあるね」
「それ以前の蓄積があっての、この7年でもあるな」
10月に K さんが来てくれたことで、1999年11月から、
鈴鹿が始まる 2000年11月までの経過をまとめて話すことができた。

2001年
2002年

2004年
2005年

2006年

2007年

活動の志が結集「一つの社会」実験 ⇒ 研鑽の実現が急務
人間性復帰・幸福実現のための研鑽制度が社会機構として必要との観点から合宿形式での研鑽会が始まる。
人間社会科学研究所 発足
試行錯誤を繰り返しながら、現在の「自分を知るための研鑽会」の原型ができ、実動し始める。
人間性養成に重点をおいた社会組織・機構・運営・制度に焦点があたる。「研鑽社会化活動」
「人間性の解明」から・・・「研鑽社会現象」へ

人間らしく幸福に生きる・・・だれもが望むだろう
 人間らしく幸福に生きる人が増えれば、自然、社会は良くなるだろう
人間らしく幸福に生きる⇒⇒⇒正鵠を射る 核心をとらえる
                それは、どういうことか・・・解明
                どうしたら、そうなれるか・・・方法
人間らしく幸福に生きる
 これを最優先・最重点にできるか、或いは二の次・三の次・後回しにするか
 これを一番大事にしたいけど、それに専念できない今の世
 これを実現するには、先ず、これを最優先・最重点にする社会と人の環境、それと勿論、本人の意志
人間らしく幸福に生きられるように成るための社会
 (これを最優先・最重点においた社会・機構・制度・運営)
  ⇒⇒⇒人間らしく成長し合える社会

実践の書 人間の知能 にある「心理的方面の解決」「社会構成の真髄」という課題に迫ることになる。
前にも書いたけど・・・、
ヤマギシズムの真骨頂は、世界を革命する社会実現にあり。
そして、山岸巳代蔵氏の本領は、その具現方式にあると思います。

人類幸福は精神面のみに非ず、むろん物や金でもない。
人間の幸福には、幸福社会が要る。
幸福社会には、幸福な人間が要る。
じゃあ、いつまでたっても実現できないと思う・・・?

幸福社会を実現しながら、人の幸福を実現していく具現方式
 ・幸福社会が実現するにつれて、人の幸福が実現する。
 ・人の幸福が実現するにつれて、幸福社会が実現する。
このような実践・実験を、このような規模でやっているところ他にないと思う。
手前味噌かな?⇒⇒⇒Ymagishism My Life 2007

2008年 理論と方法についての研究と実験の内容を解説する機会を設けたいと思っています。

Category: < つれづれ > | 2007.12.21 Fri 22:00

共にやり得る人

自分の意に沿わないと、ひっかかる人は、人と共にやることができない。
ひっかかるのは不愉快だから、人の中へ入らないようにするだろう。
ある程度の距離をおくスタンスをとるだろう。

自分の意に沿うことならやる。自分の意に沿う人とならやる。・・・というのは危ないもので、
意に沿わなくなったらどうか、容易に想像がつく。火を見るよりも明らか。

研鑽でやるとか、よく検討するとか、熟慮・熟考すると言っても、それは言い訳で、要は自分の意に沿うようにやりたいのだろう。
正義感の強い人によくある例で、正しくあろうとして、間違いだと思うことを正そうとする。
しかし、そこには、「間違い」と思うのも、「正しい」と思うのも、自分の考えだとの自覚がない。
「間違いだ」とか「正しい」とか言い切れないのに、間違いと思うことを拒否する。つまり、ひっかかる。ひっかかって気持ちが離れる、そして、離れているという自覚もない。
「人と共に」を勘違いして、人を「自分と共に」やらせようとする。自分が人と共にやろうとしていないという自覚もない。
建て前では「人と共に」と言っていても、自分の考えで、裁きを介在させていては、心底「人と共に」やれる筈もない。

自分の意に沿う沿わないに関わらず、自分の意見も考えも入れないで「人と共にやり得る人」になってこそ、そこから初めて、零位・一体・愛和・徹底研鑚が始まる。
揺るがない社会が実現するということは、
揺るがない人の繋がり結束が実現するということ。
「そういう人の存在」=「そういう社会の実在」

さて、自分は「人と共に」やれるか、どうか。
「人と共に」を指向するなら、自分から進んで、人と共にやろうとしてやってみることだと思う。
それが「自分を知る」近道だと思う。

Category: < つれづれ > | 2007.12.20 Thu 20:00

「知る」 を 知る

どうしたら、あんな事ができるのだろう? と思うときは「自分にはできない」という自覚がある。
しかし、自分がやったこともない、自分がやってもいない事について、無意識・無自覚に、「自分はできる」として、言っていることがある。
これは、仲々自覚しづらいと思う。
選手のプレー、監督の采配、政治決裁、経営判断の他、身近な人のやり方・手の打ち方などなど、批評したり批判する場合。
「じゃあ、自分はやれるのか?」と自問してみたらよいと思う。

泳ぎ方を聞けば、乗り方を読めば、使い方を見れば、「自分はやり方が分かる」「自分にもできる」となっている。「無自覚」
一体生活とか、研鑽生活とか、研鑽経営・研鑽運営とか、一つでやる、職場づくり、社会づくり、等々・・・聞いたり読んだりして頭で分かろうとする。
そうする元には、頭で分かれば、「自分はできる」という自信があるのだと思う。だから、先ず、分かろう、分かろうとする。
「分かればできる」という自信があるから。

「頭で分かる」ということを「知る」ことと勘違いしている。
研鑽会に何度も参加しても「頭で分かろう」としている限り、「知る」ことはできないと思う。
全然、分からなくていい、ただそのことを知ればいい、すぐにそのことを分かろうとする。よほど自分の頭に自信があるのだろう。

見た、聞いた、こうだった、こう思った、
そして、記憶を駆使して、予測、推測、憶測する程度のもの
自分はどれほど知っているのか、分かっていると言えるのか。


(S氏の前渉行程論1972年より抜粋)
・・・・・「知る」ということを別の角度から知る必要があると思います。
 「知り過ぎ」ということが言われますが、知るということに過ぎるということがあるかということなのですが、過ぎるということがないにしてもこれはやはり知るということにも順序や条件が必要であり、その間「知らない方がよい」ということも考えられるのです。
 人間、意識的にことを行うと、異なった結果が出て来たり成熟しないことがしばしばあったりして、その理由や目的を「言わねばわからない」「言えば出来ない」という事柄があり、「言ってもらえばわかる」「知らねば行えない」と考えている人にどのように及ぼしていくかということで困るのです。どのように仕組まれているかという仕組みの内容を知ってためになる人は、すでにその仕組みの中でそのような生活をしている人か、深く学術的に究明される人に限られます。深い内容のあるものには表面的評論的知識は、当人及び周囲にとって為にならないと思えるのです。

Category: < つれづれ > | 2007.12.14 Fri 01:00

実行力

どれほどの実行力があるか 実行力がある分 実現できていく。
ここには、実行力のある人が、たくさんいる。
それによって、実態が進んでいると思う。

「繋がりが大事だ」「ひとと共に」「物や金じゃない」「本当の幸福」等 どんなに力説していても、その人の生活行動にその人の優先順位や行動方向が現れてしまうから、これは隠せないし、言い訳もできない。

「実行力」と「実行」は同じではないと思う。
「実行」ではなく「実行力」があるか、どうか。

    繋がりを知ると、  自分を守らなくてよくなる
    ひとと共にを念えば、  人目を気にして怖れ怯むことがなくなる
    自分の成り立ちを知ると、  不平・不満・不足感がなくなる
    物や金じゃないとなれば、  結果や評価に動じなくなる
    誰のものでもないと知れば、  減ったり無くなったりの不安・心配がなくなる
    事実・実際に関心が向くと、  固定・停滞・キメツケが続々発見される
    本当の幸福を指向すると、  一時的な満足感や解放感を追わなくなる

まだ、まだ、あげれば、切りがないが、これらの一つ一つが、実は、おそろしい程の実行力になることは、おおかたの人は察しがつくと思う。
 (我のない人の存在は、我のある人にとって最も恐るべきもの)
こういうものをなおざりにして実行しようとしても無理と思う。
実行力とは、やる気や気負いや勢いではない。
何か、やろうと考えても実行力が伴わないとできない。

研鑚によって、自分が観えてくる。
研鑚によって、余分な観念が外れてくる。
研鑚によって、その人の内から、どんどん実行力が出てくる。
研鑚によって、どんどん実態が進んでいく。
研鑚コミュニティは、実行力の結晶。

Category: < つれづれ > | 2007.12.08 Sat 00:50

経営とか 運営について

自分が見たり聞いたりして、自分なりに捉えたことを「事実だ」としている人は、「自分が見ている」「自分が聞いている」「自分が考えている」という基盤が欠落していると思う。

「自分が見ている」「自分が聞いている」「自分が考えている」という人は「頑固」になりようがない。
「自分が見ているんじゃない」「自分が聞いているんじゃない」「自分が考えているんじゃない」「事実がこうなんだ」とする「頑固さ」。


そういう自分の思い込みで暮らしても、人と接触少なく他に迷惑をかけなければ、それでもかまわないかもしれないが、・・・

「自分が見ている」「自分が聞いている」「自分が考えている」という自覚のない人は、会社や職場や組織の「経営や運営」に携わっては駄目だと思う。

経営や運営に携わる人は、「自分自身の研鑽態度と自覚の養成」を最優先にすべきだし、そうしない経営者・運営者は、周囲からも厳しく批判したらいいと思う。
研鑚社会は、研鑚経営・研鑚運営の社会だし、そこを怠る者は、経営や運営に携わる資格なし。


こういうことって、今までにも何回も言ってきたつもりなんだけどなぁ。
本当の人間にならないと、本当の仕事も本当の社会もできないし、
研鑚する人にならなかったら、研鑚経営も研鑽社会もできないし、
そんなこと、分かりすぎるくらい当たり前の簡単な理なんだけどね。
人をそうするのは難しいけど、自分が成ろうとすることだからね。
先ず、自分が本当の人間、研鑚する人に成ろうとすること。


知識や経験で、経営や運営をやろうとしている人は駄目だな。
先ず、自分が「自覚ある人・研鑚態度の人」に育とうとする人、それを最優先にする人で、この社会のこの会社の経営・運営をやりたいな。

 ↓ 山岸さんの声の抜粋です。(1961.4.2 名古屋にて)


世界中一つで囲いのない仲の良い社会をつくる、これが先決だと、それなれば、それなれば、お約束しておいた「ヤマギシズム社会」即ち世界を一つで仲良く、この今いった、そういう社会に於いてこそ使いこなせる「ヤマギシズム社会式養鶏法」を出した、使ってもらったら結構だ、こんなところまできたわけなんですね。
 世界中の永遠の幸せのために、本当の幸せというのはそういうものだと思うんですが、そのために鶏を飼うんだ、或いは鶏は飼わなくても、そういう社会をつくることが先だ、まず自分がそういう人になって、そういう人がだんだんと、同じ気持の人が寄っていって社会をつくる。
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