研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学 思想 研究 ――
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Category: < 人 間 理 > | 2009.03.24 Tue 09:00

自分を知り、人生を知り、社会を知る

毎回、各地からの参加者が増え続け、年齢層も幅広く、にぎやかに開催されています。(土曜の午後と月曜の午前と2回ずつ開催しています。)
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第15回 研鑽科学サロン 発表スライド

 佐貝貞夫さん85歳が豊里から参加されて、「今までは、山岸さんの昔の資料を使うばかりだが、“人間理”というのか、このような研究をもっとやって欲しい、研鑽科学サロンに毎月参加したい。」とのこと。
 奥村通哉さん86歳が京都から参加されて、一泊して、研鑽ライフセンター等、ここでの活動の数々に触れていかれました。初対面の人が多かったようですが、「なんだか、竜宮城にでも来たような・・・初めて会ったとは思えないなあ。ヤマギシも福里も鈴鹿も、垣根なく繋がっているようだ。」とのこと。

   自分を知り、人生を知り、社会を知る
人間には、自己を観察する能力がある
 自分の現状を観察し、自分の存在、成り立ちを調べ、
 人としての自覚を育てる   (自分を知るための研鑽会)

人間には、理解し把握する能力がある
 人とはどういうものかを理解し、人の一生を把握し、
 心の世界を養う        (人生を知るための研鑽会)

人間には、思索し創造する能力がある
 人間本来の姿を調べ、幸福とは何かを見つけ出し、
 人を幸福にする社会に生きる (社会を知るための研鑽会)

Category: < つれづれ > | 2009.03.12 Thu 12:00

この人は・・・!!

 韓国のヤマギシにいる Yさんが、小野さん和貴さんと連絡をとり合っていて、鈴鹿を訪れる機会があり、2時間ほど話をした。
 彼は、アメリカに居たこともあり、ヤマギシに入って16年余りとのこと。活動家でもあるが、ヤマギシズムについての理解はとても深いと思った。
 彼自身、本質的に考え進もうとすればする程、韓国でもヤマギシに居づらくなり、今後を模索している様子。
 鈴鹿が始まるまでの2000年頃の様子を聞きたいというので、僕なりの見解やその頃の経過を話した。
 本質的な話をしたくても、ヤマギシにはそういう人が居ないらしく、インターネットから、僕のホームページ もよく読んでいて、彼の思想と一致するものを多く感じたと話してくれた。
 世界革命実践の書を探究してみて、行きついたのは「心理的方面の解決と社会構成の真髄」。そして、他の思想などにも共通する点がある中で、ヤマギシズムの要は「具現方式」ではないかと、それの「根本理念」ではないかと。そこを探究しながら活動している様子。今までのヤマギシは、運動や組織に力を入れているが、人に対する探究や理解が浅いと思う、・・・等々。
 このような見解を読んだり聞いたりして「そうだな」と思う人は多いが、その歳月の間に自分で、よくぞ、そこまで行きついたものだと感心した。
 稀にみる人という感じがした。少し興奮するというか感慨深いものがある。精神面を深く探求する人はいるが、人と社会を一つに科学できる人は、仲々いないと思う。毎週寄っている研究所のメンバーの中で Yさんも話し合える機会があれば、彼自身もっと焦点が鮮明になってくるだろうと思った。
 Yさんの場合、素質や才能や、ヤマギシズムとの出会いによって、今日の Yさんがあると思う。ヤマギシズムを知らなくても、世界中にいる「零位哲学的に、真理の究明が出来る人」に、もっと、もっと、多く出会いたい。

Category: < 人 間 理 > | 2009.03.03 Tue 09:00

第14回 研鑽科学サロン

第14回 研鑽科学サロン 発表の骨子 を掲載しました。

「社会観の元となる人間観」
このテーマは、昨年1月2月の第1回2回 研鑽科学サロンのテーマでもありました。
どうしても、もう一度やっておきたかった。やってみて、まだまだ尽きない課題だけど、ここを明らかにしておかないと、やはり肝心のところが通じないと思っています。
山岸さんの思想 に触れて、一番強く想うのは、この「人間観の違い」です。
人と人が隔てなく仲良く暮らそうと、ヤマギシなども社会活動をしようとしているが、この人間観から行かないと、根本的には何も進んで行かないと思う。

Category: < 人 間 理 > | 2009.02.10 Tue 12:00

迂闊な人間

 人間は案外、迂闊な生き物で、たまたま自分が置かれた状況や、たまたま自分が巡り合ったものによって、「こうしたい」とか「これをやりたい」という欲求が生じて、それに人生を費やして生きて行く。

 釈迦の教えに出会って、それをやりたいと思い、生きて行く。
 ヤマギシズムに出会って、それをやりたいと思い、生きて行く。
 そういうものに巡り合わなければ、それをやりたいとは思わなかった筈。
 そういうものに惹かれるものが自分の中に有ったからだと言うが、それなら、そういう自分の中のものに沿って生きて行こうとするのではないか。自分の中のものではなく、巡り合ったそれに、はまり込んで生きて行くのは何故だろう。

スポーツをやりたい、芸術をやりたい、学問をやりたい、
医者になりたい、政治家になりたい、技術者になりたい、
会社をやりたい、農業をやりたい、趣味をやりたい、教育や福祉をやりたい、
家庭を持ちたい、家族を養いたい、子どもを育てたい、親を世話したい、
仕事が欲しい、お金が欲しい、社会を良くしたい、争いを無くしたい、
 どれも、これも、状況や出会いによって生じた欲求
 状況が変われば、出会いが無ければ、生じない欲求
 そういう思いが自分の中から湧いてきたと言うが、それなら思いの前にある、思いが湧いてくる元が自分の中にある筈。それによって生きて行こうとしないのは何故だろう。

「やりたい」という思いが、嘘だとか間違いだと言うのではない。
思いの対象は、たまたまの状況や出会いによって生じたもので、自分の中にあるものは「思いの対象」ではないだろう。

 ヤマギシズムをやりたい、研鑽生活をやりたい、無所有をやりたい、一体をやりたい、金の要らない村をやりたい、実顕地をやりたい、特講をやりたい、研鑽学校をやりたい、ヤマギシ会運動をやりたい、研鑽コミュニティをやりたい、研鑽会をやりたい、等々・・・・こういうのは、どうなんだろうね?、何から来てるんだろうね?、何か観念づいたものを追ってるんだろうね。
元々こんなのをやりたいと思う人間は、いない筈。
 「運命的な出会い」とか「出会いが人生を変えた」とか「自分が心からやりたいんだ」とか言うけど、たまたま遭遇したものに、はまり込んでいるだけで、本当に自分の中のものを観ようとしていないことが多いと思う。
 やりたくもないことを意義づけてやっているのもバカだけど、
 自分はこれがやりたいんだと思い込んでやっているのもバカだよね。
 たまたま目の前に現われたものを、やりたい、やろう、としてやっているが、本当に自分は何をやろうとして生きているのかな。

Category: < 人 間 理 > | 2009.02.04 Wed 17:41

「社会観」の元となる「人間観」

 社会観は、「社会とはこういうもの」という社会に対する見方であり、人間観は、「人間とはこういうもの」という人間に対する見方であると云えるだろう。
 個々には、そんなにハッキリとした社会観や人間観を持っているという意識は少ないかもしれないが、人は社会の中で生まれ、社会から一歩も出ることなく、生涯をすごしているとも云えるだろう。そして、生まれた時から人に触れ、人に囲まれ、人の中での一生を送るとも云えるだろう。
 社会観や人間観という確たる意識はなくても、個々の見方・考え方や心理面の相当深いところに、生まれ育った社会から受けたものによって社会観が形成され、周囲の人間から受けたものによって人間観が形成されていると思う。
 社会は、そこに住む人々に共通する社会観の現われとも言えるし、 「人間とはこういうもの」という人間観をベースにした社会が営まれているとも云えるだろう。
 自分は、どんな人間観か、どんな社会観か、無意識に形成されているものだからから、自分をよく観察し、調べて見ようとしないと意識化できないだろう。
 現在の人間観から見た人間しか知らない、社会観から見た社会しか知らないという実情では、人間や社会を考えようとしても、その域を出ないだろう。先ず、現状の人間観、社会観を自覚して、それに捉われない人間や社会を考察してみたい。
「社会観」の元となる「人間観」序文より抜粋

    1.社会と人間 (現状の社会観・人間観に留まって停滞している実情)
    2.人間の考えについて(人間の脳の作用について)
    3.欲求 意志 感情 などについて
    4.教育やしつけ と 意志
    5.やらせる やめさせる
    6.自由欲求 自由意志の領域へ

Category: マイプロフィール | 2009.01.20 Tue 12:00

内観コースに参加しました

2009年 正月早々、研鑚ライフセンターの内観コースに参加しました。
幼い頃からの自分をじっくり観つめてみました。
両親、特に母親に対する、その時々の自分の心境や思いが蘇ってきました。
そして、何よりも大きかったのは、ヤマギシでの26年間の自分を振り返って観たことです。
私としては、両親のもとで暮らした19年間よりも、ヤマギシでの26年間が今の自分を形成しているな、と感じる程でした。

1974年7月に豊里で暮らすようになり、そこで杉本さんに出会いました。それ以後、杉本さんの考え方や生き方に惹かれ、多くのものを注いでもらい、それを吸収してきた日々であったように思います。

1993年頃から、杉本さんを通じて、山岸さんの著述や口述や録音に触れる機会が多くなりました。それからが、私の大きな転機になってきたようです。山岸さんが遺したものに触れれば触れる程、「これは今まで思ってきたものとは違うぞ」という感が強まりました。
ヤマギシズム、研鑽、社会、人間、そのいずれをとっても、今まで自分が捉えていたものとは違うのです。
そうして、ヤマギシズム、研鑽、社会、人間、について研究意欲が増し、有志と共に話し合い、活動する暮らしになっていきました。
杉本さんから手渡されたノートやテープから、山岸さんの思想に触れ、本当に多くのものを齎され、それは今も続いています。

Category: < つれづれ > | 2009.01.11 Sun 21:00

2009 新春特別企画 「研鑽科学サロン」

研 鑽 社 会 経 済 の 現 状 と 展 望
発表者は小野・杉江(研鑽科学研究所)・野尻(as one company)の3名
as one companyの経営概況から始まり、今日の研鑽社会の規模や人員、資金の流れ等、具体的な数字で示しながら、経済状況を公表する初の試みでした。
 このタイトルを見て、「経済のことなんて関心ない」と思う人や、「ここの経済状況ってどうなってるんだろう?」と関心ある人や、それぞれの思いがあると思う。
 現代の資本主義貨幣経済の中で、それに順応して暮らしを成り立たせ、研鑽生活をしていこう、仲良いコミュニティを作っていこうとする活動になり易いけれど、革命的志しを抱く人たちによって、社会生活の経済基盤そのものを見直し、研鑽により練り固めながらの活動が始まり、7年8年という歳月をかけて、「研鑽社会経済」というものが軌道に乗りつつ稔ってきていると思う。
 まだまだ規模は小さくとも経済活動に現われた実態は、誰にも分かり易いと思う。今後、各界の人々に、この実態を広く紹介する前に、研鑽社会に住み、直に触れている私たちが、先ずこの実態を知ることが何よりも大きいと思った。




as one company 構成図

Category: < つれづれ > | 2009.01.01 Thu 00:00

謹賀新年 一体研鑽社会を目指して9年目の春

1961年(昭和36)山岸さんが亡くなった年に、実顕地が誕生しました。
当時あった春日山のように、財産を整理して集団生活する方式は、特殊で普遍性がない。
家も、財産も、職業も、現状そのままで、一体社会に革命する実顕地が誕生した。
全国各地に多くの実顕地が始まったが、運営の難しさや人間関係などで、殆どが崩壊してしまったそうです。
 2001年、現状そのままで一体研鑽社会(本来の実顕地)の実現を目指しての活動を開始しました。
 身に合った住まいに暮らし、職に就きながら、一歩一歩、みんで産業を興し、共に住まいや暮らしを作り、管理や統制の要らない、悠々自適の心のままに、家も 暮らしも 子育ても 仕事も お金も 自在に融通しながら、青年層も続々と参集し、50世帯以上で大家族一体研鑽社会を目指してやっています。

「自分を知り、人生を知ろうとする人たちの研鑽ライフ社会」・・・・いつ頃からか誰ともなく「研鑽コミュニケーションの気風だね」と言い始めた。
妥協や言い聞かせのない気風、悩みや不仲のない気風、
うわさや憶測のない気風、老後や人間関係を個々に抱えない気風、・・・・
町内会や自治会やパートで働きにくる近所の人々を巻き込んで・・・・、
そんな、「研鑽コミュニケーション地帯」が広がりつつあります。
「研鑽」や「実顕地」という言葉の先入観を外して、「零」の位置から調べ直してみよう。そして、世界各地で、現状そのままの一体研鑽社会づくりが始まることを強く願っています。
http://as-one.main.jp/ ← ここをクリックすると「研鑽コミュニティ」のホームページを見ることができます。
http://www.scien-z.org/ ← 研鑽科学研究所です。
今年も益々「一体研鑽社会」の研究・試験を繰り返し、力を注いでいきます。どうぞ、よろしく!!

Category: < 精神革命 > | 2008.12.25 Thu 12:00

自分たちでやろうとする人によって

ブラジルからホメウさんが来ていて、今月の「自分を知るための研鑽会」「人生を知るための研鑽会」に続けて参加した。
「ブラジルで特講やってるけど、ゼロから見直したい。準備研とかやってるが、それより、やってる人たちが、まず“自分を知る”ことが先だ」と。
そして、早速ブラジルにいるケンジさんとも連絡を取り合って、ブラジルで「自分を知るための研鑽会」「人生を知るための研鑽会」をやりたい、やろう、どうしたらやれるようになるか」等々、話し合って、考えている。
日本でもブラジルでも同じだと思う。
自分たちで やりたい、やろう とする人が、もっともっと欲しい。

 (音声約1分間 1961/4/2 録音より抜粋)


またそれなれば情勢をつくろう、自分たちでどういうものか検べて、いいなればそういう情勢を作って、そして受け入れてやってみようと、こういうことになれば結構だと思う、一部にとどめておかないで、もっと広範囲に全国的に、そういう希望者があるなれば、その情勢を作ってもらったら、それからよく検べて、どうすればそれを取り入れてやっていけるか、検べて、検べた上で、自分たちで やれる、やりたい、やろう、とこうなった時に、やってもらったら結構だと思うんですけどね。各自の意志によって。

Category: < 研鑽の理 > | 2008.12.21 Sun 08:26

「あらわれたもの」 と 「そのもの」

 例えば、ホコリやゴミが付いたカップを見ると、「汚いカップだな」と見える。
 このことを調べてみると、「汚い」というのは、ホコリやゴミを見てのことで、ホコリやゴミがなければ、「汚いカップ」とは見えない。
 「汚いカップ」というのは、主体が「カップ」にあって、「カップ」のことを指して、そう言っているようだが、その実は、ホコリやゴミのことを指しているのではないだろうか。つまり、「カップ」が「汚い」のではなく、ホコリやゴミを「汚い」と見ているのだろう。「汚いカップ」と見えるのが、間違いだとか、おかしいということではなく、実際は、ゴミやホコリを「汚い」と見ているのに、意識の上では「カップ」を見ているつもりではないだろうか。
 ここでいう「あらわれたもの」とは、この「汚いカップ」の例ように、日常見たり聞いたり触れたりして、「認識して捉えているもの」とも云えるだろう。
 「そのもの」とは、この例でいうと「カップそのもの」とも云える。いくら、ホコリやゴミが付いていても「カップそのもの」は汚いものではないだろう。
 この章では、「あらわれたもの」と「そのもの」ということについて、
1.言葉 と そのもの
2.物象・事象 と そのもの
3.あらわれたもの と その人
以上の3部に分けて述べてみようと思う。
「あらわれたもの」と「そのもの」 序文より抜粋
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