研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学 思想 研究 ――
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Category: < 世界革命 > | 2007.06.19 Tue 15:00

いよいよ 第一案

その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと。
                 (14.人情社会組織に改造)


「自由」って、とても簡単なことで、獲得することでも作り出すことでもない。
元々の何もない状態が「自由」。押し付けや束縛がない状態。
こんなもの実現できない人間は、やはり、かなり狂っている。

「自由にしよう」とか「自由になろう」なんて云わなくても、万人元々自由なんだけど、自分の自由は主張するくせに、人の自由を平然と侵そうとするのがいるから、他から自由を侵されないように、「自由を守る」機構・制度・運営が要る。


容喙・・・くちばしを入れること。横から口出しをすること。
干渉・・・他人のことに立ち入って自分の意思に従わせようとすること。


人は人の行為を縛る必要もなければ、人に行為を押し付ける必要もない筈。自分がやろうと思うことをやる。これは人間に限らずどんな動物でも、そうだと思う。

人にやめさせようとする、人にやらせようとする、それが、そもそも狂った人間の症状だと思う。だが、「悪いことだから」とか「良いことだから」と云って、これらを正当化している。

「自由」という言葉じゃなくて、「自由」とは、どういうことか。
ABC、イロハ、の基礎からしっかりやろうか。
人はその人の意志で行動する。つまり、私の意志で私以外の人が行動することはないのだから、先ずは、限界を定めなくても、元々ある限界を知ろうね。

妻がご飯を作るも作らんも、遊宴・外泊しようとも、こちらの意志とは、別のこと。そんなんで束縛や押し付けが出るなら、自由なんて、とても無理と思う。こういう場合も、倫理観や道徳観を入れて束縛や押し付けを正当化する。


不意に誤って害を及ぼしてしまうことはあるかもしれないが、故意に人を傷つけ危めようとするのは、やはり、人間の狂いから来るものだろう。
人に迷惑や危害を加えることは、狂った行為ということになるが、「迷惑や危害」ということを取り違えないように。

例えば、急に仕事を休んで迷惑をかけたというが、仕事の邪魔をしに来たら迷惑だろうが、休んで何もしないことが、なぜ迷惑なのか?
夫が他の人に気がいって、妻が不幸になったというが、かまってくれなかったり、他の人を好きになることが、人を不幸にするのか、どうか。
もっと、極端なことを言えば、あの人の存在が迷惑だと思う人もいるかもしれない。じゃあ、その人は存在していることで迷惑をかけていることになるのか。

自分の思い通りにならないのを迷惑だとか、被害を受けたとか、思う人も狂った人間の症状だろう。

今の人間界では、束縛し合い、押し付け合いによって、社会秩序が保たれ安心して暮らせる、となっているから、「自由を実現する」と、とても迷惑で害毒のように嫌う人も多く出るだろう。
何の危害も及んでないのに、「けしからん」「許せん」「放っておけん」と、自由を逆恨みされる場合もある。



研鑚コミュニティが、真に自由な天地であるために、先ず整備したい真の人間向きの機構と運営。
研鑚ライフサポートで、最も力を注ぎたいところ。
その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと。

Category: < 精神革命 > | 2007.06.15 Fri 15:00

豊かさ や 喜び

怒り、争い、悩み、憎しみ、闘争心、支配欲、独占欲、優越感、劣等感、・・・等々を、性(サガ)、業(ゴウ)、煩悩、などと呼んで、人間に具わったもの、あってしかるべきもの、という意見には賛成できない。

むしろ、これら(怒り、・・・・、煩悩、など)は、異常、間違い、病的、というべきで、人間本来の姿から外れたものと思う。
精神的疾患の病名みたいなものだと思う。
「こういうものは人間には付き物だ」としている限り、人類から紛争・苦悩は解消されないだろう。
やがて、精神科学や心理学が進歩すれば、これらの疾患にみな原因と療法が見付け出されるだろう。


幼い頃から植付けられた観念の蓄積によって、物や環境や人の行為など、「有って当り前」「やって当り前」になっている。また、自分の頭がそうなっている自覚もない。
生活には不可欠と思うような、電気・ガス・水道・ゴミや排水の処理・道路整備などなど、ずいぶん人も物もかけて用意されている。それらも、有って当り前、うまく行っていて当り前。思い通り行かない時の不満は大きい。

安心・満足を欲していながら、不安・心配・不平・不満がある。
そとに原因を置いているから、不安や不満があるのを異常とも病的とも思わない。むしろ、この状況だから、不安や不満は当然としている。
娯楽番組に浸り、美食で腹を膨らし、酒をあおりつつも、不平や悩みが絶えない。充分な食もなく、教育も受けられない地域の人々とどちらが悩みや不平が多いか比べてみれば分かる。物や教育では不安や不満は無くならない。

不平・不満なく楽しく満足そうにしていても、それは一時的なもので、思い通りになっている状況でのこと。思い通りに行かないと不平・不満が出る。「安心や満足は自分の思いを満たすこと」のように思っている。いつもいつも一時的な満足感を追いかけている。

多くの物や環境や人の行為の中で暮らしていても、殆どが「当り前」で、それ以上のものを得て満足しようとする。得られないと不満となる。


今以上に得られなくとも、今以下になっても、物は無くならないし、無数の人の行為の恩恵を受けている。

人は生まれながらにして、衣食住に恵まれ、周囲からの愛情を受け、安心・満足の内に人生が始まる。そして、精神的に、肉体的に、膨大な物や人の行為を受けて成長していく。
周囲から齎されて受けたものがギッシリ詰まった恩恵の塊のような一人一人。
子どもの頃の嬉々として遊び戯れる喜びから、青年期の血気盛んな躍動する喜び、知性を培い人生の豊かさを知り、人生を重ねる程にその人間的豊かさ生きる喜びは、果てなく増すばかり。

「豊かさ や 喜び」は自分の思いに振り回されて追い求めるものではないと思う。
豊かさ や 喜び はどこにあるか。

Category: < つれづれ > | 2007.06.13 Wed 12:00

初心

困っている人がいたら、手助けする人がいたらいいと思う。
相談したい人がいたら、相談にのる人がいたらいいと思う。

しかし、その人の頭の中で、手助けするのが当然、相談にのるのが当然、となるとどうなるか・・・。

物でも人の行為でも、最初はその価値を感じる。
見慣れて当然になる。価値を感じなくなる。
有るものがありまま見えるのと、有って当り前となっているのとの違い。

自分を知らない、その物を見ようとしない自分を知らない。
例えば、お金を払ってるからガスや電気も使えていると思っている。
お金を払ったくらいで、ガスや電気がくる訳がない。
有って当り前となっているものが無くなったり少なくなったりすると、おのずと不平・不満が出る。さびしくなる。

自分を知らない。高いところに居座っている自分を知らない。
自覚がないという観念・心の状態は生活の全てに現われている。
物の扱い、人の行為、対人的こころ・・・・。

有って当り前、やって当り前。・・・・・・無自覚
      ↓
物や人の行為が見えない。見ようとしない人間性。人格。
      ↓
物や人の行為を無にする。生かせない。   資格がない。

人間が人間性を発揮して、人間らしく生き、他からの力や決め事や観念で人を動かすのではなく、一人一人の知性ある自覚からの行動によって、保ち合いで成立する社会には、この要素が不可欠と思う。

今の人間社会は、アメとムチで人を動かす社会だから、自覚も人格も資格も要らない・・・?

そういう社会は、おさらばして、人間本来の姿 それに適った人間社会を実践して実証したい。

Category: はじめに | 2007.06.13 Wed 10:00

まえことば

いまさら「まえことば」というのも適当ではないかもしれないが、この研究の目的、私自身の目的は、山岸氏の思想やヤマギシズムではなく、やはり、人間にとっての本当の幸せ、その絶対条件と思われる本当の社会(幸福社会)の実現にあります。

これを読まれる人は、従来の社会生活を営みながら、ご自身の頭の中で、山岸氏の思想やヤマギシズムを理解しようとされるでしょうが、私達は「新たな社会の実現」という活動をベースに論理的究明と方法考案と実践によって、山岸氏の思想およびヤマギシズムを理解し、解説しようとしています。

人間とは何か、社会とは何か、などの根本的な捉え方が、既成観念とは甚だしくかけ離れている為に、一般的な見地からすると、非常に判り難い表現が多いかと思います。

本来なら、一問一答、丁寧にお話するのが筋でしょうし、私も直接会ってお話したいです。
ここに表現されたものを各自の受け取り方で、ヨイとかダメとか早合点しないで、共に調べ合い、研究し合う為のキッカケにでもなれば幸いです。

書いた物というのは、非常にあいまいなものです。
直接、会って、お話すれば、少しは通じ合えるかもしれませんが、それでも、話し合いにならない場合もあります。
行動を共にしたり、暮らしを共にすることで、より分かり合えることがあります。
ヤマギシズムを調べようとすればするほど、自分を調べる必要があり、共に話し合う必要があり、行動を共にしたり、暮らしを共にしたり、・・・・と、おのずと社会化実動へと、進んで行くのは必然の現われと思っています。

心ある人々からの忌憚ない、批判や質問など、お便りをお待ちしています。

Category: < 精神革命 > | 2007.06.10 Sun 11:00

観る一線 と 幸福度

物や環境が揃えば、豊かになるかといえば、そうでもない。

揃う前は何も無かったのだから、やってきただけ、有るものがあるだけ。
研鑽会も、会社や仕事も、仕組みやサポートも、足りないとか、出来ていないとか、何もない。みんな有るものばかり。

どこを見ているか、何を見ているか、だと思う

Category: < 精神革命 > | 2007.06.09 Sat 10:00

無いで当り前で、安定・安心

ある日のニュースでのこと。車椅子の人が電車の乗り降りの時、駅員が介助しなかったと訴えた。そして、駅長さん等が頭を下げて謝罪した。

周囲から大事にされて「手助けされて当り前」という観念になっているとしたら、その車椅子の人は、とても不幸だなと思う。


福祉の充実を取り違えて、「してもらって当然」と威張る国民を増産して、そこからくる不平・不満への対応に忙しい行政。
これでは、豊かな人はできないし、むしり取られるばかりで豊かな社会はできない。

中には、不備や不手際を指摘して、不平や不足を言うことで社会が改善されると思う人もいるみたいだが、改善するのは国民以外にいるのだろうか。


常識観念や社会通念で、みんなが「当り前だ」としているので、「当り前だ」と自分がキメツケている自覚がない。

あてにしてない状態で、物をもらったり、食事や洗濯をしてもらったり、手助けされたり、協力されたりしたら、どんなに嬉しいと思うだろう。
しかし、物が豊富になり、制度や環境が整うと、有って当り前、してくれて当然になる。お金を払ったんだから、自分はこれだけやったんだから、仕事なんだから、約束したんだから、家族なんだから、ここの社員なんだから、規則でこうなってるんだから、・・・・

日常生活の殆どが、「有って当り前」「やって当り前」になっている。自分の当り前の基準を下回ると「無いのはおかしい」「やらないのはおかしい」と不平・不満となる。
「有る物」や「人の行為」が見えなくなる。
「有って当り前」「やって当り前」になると、「物の豊かさ」も「人の行為への喜び」も、どんどん薄れていく。
「豊かさ」や「喜び」が薄れていくということは、「幸福」とは逆方向だということは言うまでもないと思う。

感謝したり、ありがたく思いなさいという精神修養ではない。
有る物や人の行為が、ありのまま見える正常な普通の人になろうということ。


「幸福」には、「豊かさ」や「喜び」は必須条件で、かなり大きな部分を占めると思うが、幸福を願って良かれと思って、豊かさや喜びのない暮らしへと逆行しているのではないだろうか。

「無い」ということを、「寂しい」とか「貧しい」と思う人がいる。
しかし、「無くて当り前」あてにしていない状態というのは、がっかりすることも、不平や不満もない。全てが「有る」「有る」の豊かな状態だと思う。

金が無いとか、人がいないとか、食べ物はご飯しかない、飲み物は水しかない、言った通りやってない、少ししかやらない、あれがない、これがない、と思う人は、自分の基準線以下の物や行為が見えない「上げ底の人」だと思う。
上げ底の人は、すぐに不平・不満・不足が出て、さびしく貧しくなる。
あの人も上げ底だなぁ、この人も上げ底だなぁ、・・・
上げ底の人には近寄りたくないねぇ。喜びあふれる豊かな人に・・・

人間、もともとは底をついている、ゆるぎない安定・安心の上に生きている。
人類幸福の根幹に関わる、簡単明瞭すぎて軽視看過している重大問題と思う。


古臭い文章ですが、よかったら、ご判読の程を・・・→ 豊かさ観 1996
社会の構成要素として 振出寮 も見直して行きたいですね。

Category: < 具現方式 > | 2007.06.02 Sat 18:00

人の営みをサポート

元来、自分だけの為の働きなんて、あり得ないだろう。
人の営みは、自分を含めたみんながより良く生きる為のものだろう。
しかし、報酬とか収入とか貯蓄などを重視する社会構造によって、仕事や働きをしないと自分が生きられないというような感覚で、「自分の人生の為」という目標で働いている人が多いのではないか。

だからといって、社会が良くなる働きをしようとしても、即そうなるとは限らない。
やはり、自覚を養い、人間性を高めてこそ、社会が良くなる仕事ができるという順序があると思う。
人間性を高めれば、何をやっても、迎えられるだろう。
研鑽ライフサポートの照準は、そこかな、と思う。

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元来、人の営みは、社会を豊かにし、
自他共により良く生きるためのもの。
    ↓ ↑
豊かな社会になればなるほど、ますます人の営みをサポートできる。
   ↓ ↓ ↓
永遠循環繁栄世界へ と つづく・・・

Category: < 世界革命 > | 2007.05.29 Tue 18:00

「人間性の解明」から・・・「研鑽社会現象」へ

<人間性の解明>
人間の特性である知能を生かす。
人間の知能を育み生かすことによって、人間らしく生きることができる。

<知性ある人間らしさ>
怒りや争いがない 疑いや憎しみがない 強要や侵犯がない。
人を愛し、自分を愛し、凡てのものを愛し、共に生かし合う。

<現状とのギャップ>
優秀と云われている学者・識者にも、怒りや争いがある。それは知性が足りないから。
人間らしく知性や心を育てるために、教育や躾を重視するが、教えられ、それを信じ、善悪を習い、常識や道徳を身に付けても、表面的なうわべのものは出来るが、決して人間性は育たない。
むしろ、教育や躾は人を裁く頑固さを植え付けるものであり、知能の育成を阻害する。

<知性を育み生かすプロセス>
自分を知るために自己を観察する。
自分の存在を調べ、自分の成り立ちや背景や凡ゆるものとの関連を知る。
         
人生を知るために人の存在を調べる。
人の一生を観察し、人生の目的や生きがいを知る。
         
社会を知るために人間本来の姿・本当の生き方を調べる。
人生の目的・人間本来の姿に適った社会組織や環境や生活を創造する。
「知性を育み生かす」とは、子供や青少年のことではなく、生涯を通じて人間性を高めていくということ。ここまで高めたら終わりというものでない。
成熟するほど崇高な知性あふれる人生が実現する。
知能を具えた人間である以上、万人もれなく、知性を育て、崇高な人間性を発揮することができる。


<社会の解明>
監視や取締りや罰則・抑圧の要らない社会
義務や責任、常識や道徳を押し付けない社会
ものの占有や偏在がなく、貧富の格差のない社会
他からの力に依らない自主自発的な各自の内なる知性と愛情によって保ち合う社会

<現状とのギャップ>
自由・平等を否定する人はいないだろうが、現状は、してはならない・しなければならないことだらけで、会社でも学校でも家庭でも人の上下を当然としている。
ある程度の不自由・不平等は当然として、それを外したら、社会が混乱するとしている。
教育や罰則の要る法律で治めていこうとする社会では、教えることや取り締まることを止めると秩序が保たれない。
社会的に認められることは良いことで、それに反することは悪いこととし、飴とムチで動物のように人を動かす社会では、その社会通念に順応して人々は生きている。

<具現方式によって>
先ずは、何でも言える、何でも聞ける、じっくり調べることができる「研鑽の場」を設けよう。
誰もが冷静に調べる時と場を得て、自分自身の中に、自分を知り、人生を知り、人間性を高めようとの方向性が見つけ出されると・・・、
一足飛びには行かないが、少しでもそのような暮らしを実現したいとの欲求が生まれる。
         
次に、何を願っているのか、本当の目的は何なのか、とことん調べる「目的研鑽の場」をもとう。
そこに同じ有志が相寄って相談することで、人間らしく成長し合っていく生き方、そうできる社会も不可能でないことが見えてくる。
         
そして、実現するには何が必要か、どうしたら実現するかの「方法研鑽の場」が生まれる。
次々と具体的な方法が考案され、生活環境や社会機構・制度の試験・実験へと具現化していく。

<研鑽社会現象>
研究に向いた人は、研究所を組織して、人や社会の研究に傾注した。
<研鑽科学研究所>

そこから、知性を育み生かす方法が、いろいろ考案され、試みとして各種の研鑽機会が設けられた。そして、生涯研鑽生活制度が、人間社会には不可欠な要素として、凡ての人を対象にした知性を育てるための機関へと発展してきた。
<研鑽ライフセンター>

研鑽ライフの軌道に乗る人が続々と生まれ、人間性を高め合おうとする暮らしや仕事へ、そして社会へと変化が現れてきた。
自ら進んで人間性を高めようとする人には、従来の義務や責任や監視も権利主張も要らなくなってくる。
それぞれの心からなる社会活動が、思いっきりやれるよう、互いにサポートし合っていく。
来る日も、来る日も、自分を調べ、人生を調べ、皆が快適に暮らせる社会を描きながら、知性を育て合い、互いを生かし合う親和協力社会現象。
<研鑽コミュニティ>

Category: < 研鑽の理 > | 2007.05.26 Sat 10:00

研鑽の実現を

ヤマギシズムの根幹は、「研鑽」にあると思います。
私どもでは、ヤマギシズムに代えて、「研鑽科学」という語を用いています。

山岸さんは、余命を知ってのことか、没する前の短期間に、実顕地と研鑽学校を出して亡くなった。
実顕地も、研鑽学校も、理念と云われている無所有も、一体も、ヤマギシズムから発したものだろう。だが、その逆は云えない。
つまり、実顕地が、研鑚学校が、無所有が、一体が、「ヤマギシズムだ」とは云えないだろう。
ヤマギシズムには、固定もキメツケも無いのに、ヤマギシズムでやろうとする人に固定・キメツケがないだろうか。

釈迦はキメツケのない人だったらしい。だが、周囲・後代の人にキメツケがある。
「釈迦はこう言った」とか「釈迦が言ったことは正しい」・・・と。

シャカは正直、教えもキメツケもしていない最も科学だと思う。
       :
弁証法はキメがないのに、やっている人達はキメがキツイ。

                    (1961.3.14 名古屋にて)

科学や研究そのものには、キメツケる要素はないが、科学や研究をする人にキメツケがないだろうか。
人間の考えは不確かなもので、「これこそは絶対に間違いない」と思ったことでも、ずっと先では、ひっくり返ることもある。
しかし、今日までの人間社会では、子どものころから、正しいとか間違いだとかを教えて、キメツケの訓練をし、その訓練した頭で、キメツケ裁きながら暮らしていく。良いこと、悪いこと、良い人、悪い人、・・・等々。
規則・法律・学問・等々、みなキメツケの上で成り立っている。社会そのものも取り決め・キメツケが無くなれば、混乱するとしている。
してはいけないこと、しなければならないこと、これは誰々のもの、・・・根拠があるとして堂々とキメツケている。
自分が直接見たこと、聞いたことも、教科書に書いてあることも、「事実だ」とキメツケられないのではないだろうか。
キメツケているという意識はなくても、深く強くキメツケが染み着いていて自覚がないことが殆どだろう。

キメツケの社会に育ち、キメツケの頭で、ヤマギシズムや釈迦に出会っても、「ヤマギシズムはこうだ」「釈迦はこう言った」とキメツケていく。

人間を調べ、人間の考えとはどういうものかを調べ、現状のキメツケ状態を自覚し、キメツケのない頭になっていくことによって、研鑚が始まる。
キメツケがなくなると、争うことがない。あれは良いとか、あれは間違いだとか、裁くことがない。
ヤマギシズムを実践するということは、研鑚を実現するということであり、
研鑚を実現するということは、研鑚する頭脳が実現することであり、
研鑚する人による生活行動からなる、研鑚社会が実現する。

Category: < 社 会 理 > | 2007.05.17 Thu 22:00

Kensan ・ Life ・ Home

Life ライフ・・・生命、生涯、人生、生活
Home ホーム・・・家、家庭、故郷、本拠地

「研鑽ライフ」の「ホーム」  「研鑽ライフ」の対象は「全ての人」
「研鑽社会化」の「ホーム」  「研鑽社会化」の対象は「世界中」

「全ての人・世界中」の「ホーム

「研鑽ライフ」の道に乗り、「研鑽社会化」を希う人たちで、
ホーム」を創ろう。「ホーム」を育てよう。

ホーム」が成長することによって、「研鑽ライフ」が拡がり、「研鑽社会化」が拡がる。
ホーム」の活動は、「研鑽ライフ」のサポート。
ホーム」の役割は、「研鑽社会化」のサポート。

衣食住・家庭・子育て・学術・趣味・職業・・・生活の凡てを「研鑽ライフ」の方向へサポートする。
産業・経済・制度・機構・会社経営・組織運営・・・社会の凡てを「研鑽社会化」の方向へサポートする。

研鑽ライフホーム」では・・・、
工場で働くことも、野菜を作ることも、経営や事務をすることも、家事や子育てすることも、趣味や学問することも、・・・
各自の持ち味で持ち場に専念すること、即ち、
各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって
          ||
研鑽ライフホーム」が充実し成長する。それによって、
          ||
「研鑽ライフ」が拡がり、「研鑽社会化」が拡がる。


「研鑽ライフサポート」「研鑽社会化サポート」のために、「研鑽ライフセンター」と「研鑽科学研究所」を大いに活用する。

「研鑽ライフホーム」は、「研鑽ライフサポート」「研鑽社会化サポート」の実動機関である。
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