研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学 思想 研究 ――
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Category: < 世界革命 > | 2008.04.19 Sat 09:00

本質的なものに重点をおく 1

実名をあげた方が、グッと現実感でるかな・・・
M さん T さん S さん O さん K さん T さん etc.・・・
自分のための稼ぎ働きではない人ばかり。
・・・・けど、現象面を見て、自分の中の良いという思いで決断・判断し、自分が良いと思う状態だと喜んだり評価したり・・・
この人たちが、現象面よりも本質的な方へ重点いけば、いくだけ、それぞれの持ち場の実態が全然違ってくる。(この社会実現はこの途しかないよね)
「本質的なものに重点をおく」って、なんだか人任せ?自分がやることだと思っていない。どうすることか分からないから?
でも、ここをやらない限り、現象で喜ぶ感人種の乱造だよ。特に他の人に関わる役割に就いている人は・・・。
重点、関心、着眼点・・・って、そこに置こうと置こうと強く思ったって置けるものではない。
やはり、調べて、調べて、目的・狙い・理想・本当・・・自分の中を研鑽。
自分の中で重点を置くところが変わっていくもの。変わっていくというよりハッキリしてくるのかな。今はハッキリしてないのだろう。
現状は、その人がやろうと思うことをやっているのだろう。
こちらから見て「本当にやりたいこと、やろうとしてるのは、そこじゃないだろう」と言いたいけど、それを言ってしまうと分からなくなって固まってしまう・・・?。
まあ、各々、ご自分の抱かれる理想社会を目指しての活動以外ないんだけどね。

さて、本題の「本質とは」なんだけど、言葉で云えば、あまりによく知っているよく分かっているというヤツだ。そんなによく知っているよく分かっているのに「なぜ日常生活でそこに重点を置かないのだろう?」と、こちらから見ると不思議でならんのです。

Category: < つれづれ > | 2008.04.13 Sun 15:00

人間学びの7年半

鈴鹿に率先して来た Fさん Fさん Oさん Yさん Hさん Yくん Kくん etc.
あの熱い志は何処へ行ってしまったんだろう?って思うことがある。
みな、ヤマギシでは第一線?で活躍してた・・・

鈴鹿に来て初めの頃は、一個人と個人ではなく、ヤマギシの時の係とか役割とか持ち場とか立場とかの先入観から人を見ていた面が多かったと思う。
いざ、ふたを開けてみると、ここではその人の実質があらわになる、肩書きも過去の実績も通用しないから実質だけがモノを云う。
・・・そして、今日に至る。

その時の、強い願望・熱意・意欲や高い志で実態ができるわけじゃない。
手腕・采配・豊富な経験を有していても、それを寄せ集めても、決してかつてない新しい社会は生まれない。
規模は小さくても本質的なものを作るには、「何が必要か」「それを阻む原因は何か」。

手腕や経験は、多くの人に益をもたらすように見え、それを活かそうとして、そういう役割に就いたりする。しかし、その人の独走・頑固・無自覚が露呈してくると、役割に応じて周囲への影響も大きいから、なんとか正常になるようにと、その人に研鑽への働きかけが始まる。
これは全て本末転倒で・・・、
役割に就いた人の正常化に力を入れるのではなく、
先ず正常な人になって、それから役割に就くというのが筋だと思う。


政界・財界・ヤマギシその他どこの会社でも組織でも、このことに焦点が当たってないから、解決の兆しが見えない。力や経験のある人を「重要だ」としておいて、「重要だとしている」から動かせなくなっている。
独走・頑固・無自覚も、その人自身にとどまることなら、その人なりの進み具合い・自由意志に委せていられるが、力の大きい人、役割に就いた人は、周囲への害も大きい。
   ○ 力や経験のある人を重視する社会や組織の運営
   ○ 自覚、人格、資格 を重視する社会や組織の運営

まだまだ、やる事ばかり重視して、人を重視してないと思う。
だから、人を見る目がないと思う。人を見る眼を養いたい。

2006.12.02 正鵠を射る 核心をとらえる
2007.08.02 人の中身に焦点をあてる社会
2007.08.04 人の中身について話そう

Category: < 人 間 理 > | 2008.04.06 Sun 15:00

人は同じ

数十億の人がいるそうだが、人間はみな同じと思う。
3人でもいいけど・・・、
10人くらいで、ひざを突き合わせて、人生についてトコトン話し合えると、自然に、世界人類に通じるものが出来てくると思う。
ちっとも難儀なことではないんだけど、そういうのって、まだどこにもないかも。
それができない、やろうとしないが故の今日の人間社会かな。
もしかしたら世界のどこかにあるかも。あれば、そこには実現してるだろう。
世界に通ずるもの。それをやろうとしてやっている。
学説や理論、知識や経験、教育や躾け、信仰や教え、道徳や規則、判断や分別・・・・「人間の考えで こうだ とするもの」を一切持たないで、生まれて死ぬまでの人の一生を観てみると、みな同じであることが分かってくる。
自分の人生の目的と凡ての人の目的が重なってくる。
もう既に幾千もの人生を歩んでいるのだろうか・・・。

「合宿研メモ」より抜粋 「人生を知るための研鑚会」

Category: < つれづれ > | 2008.03.29 Sat 13:00

経過と方向

2001 本当の社会を作ろう 一つで・・・持たない・・・
      ↑  仲良い・・・生き生きと・・・
2002 その前にじっくりと研鑚する機会が要る(合宿研鑚会)
      ↑  何をやりたい?自分をどう活かす?何のために生きてる?
      ↑  適正試験科合宿研鑚会
2005 その前に現状の自分がどうなっているかを知るために、
      ↑  自分の考えを自覚できるように
      ↑  自分を知るための合宿研鑚会
2006 研鑚会で自分を調べるためにも、先ず自分を観察できるように
          自分を知るための内観コース

ここからでいけるのだろうか? まだまだ模索中

    自分を知るための研鑚会
    人生を知るための研鑚会
    社会を知るための研鑚会
総親和社会への精神革命  心理的方面の解決と社会構成の真髄
・・・という課題に適っているかな? ここをクリアできるだろうか?



人間の考え(自分の考え)とはどういうものか
現状の自分の考え(人間の考え)はどうなっているのか
自分の考え(人間の考え)で思っていること捉えていること、の自覚
自分も人も凡ゆる物事・知識・経験・記憶など、自分の考え(人間の考え)で捉えているとの自覚
この自覚のなさ 自分の考えていることがそうだとする自己盲信状態
天が動いているように見えるから天が動いているとする天動説的観念、
一人相撲、頭デッカチ、一喜一憂(麻薬)自家中毒
人間としてのベース 自己を観察できる知性(自分の考えの自覚)
これがないのは似非人間



真の人間は、一人一人に脳があり、考える知的能力があり、意志を生成し、自分で考えて行動する。
「自己の自覚」と共に「自己への探究心」も生まれる。
    ↓
自分の存在や成り立ちへの関心、人生の意義や目的への好奇心
    ↓
自分の知能で考える。人間観・人生観・幸福観・社会観・・・思想形成
自分の目的を知り、自分の思想を生きる・・・人格形成
    ↓
日常生活の凡てに、思想が現われる。人格が現われる。

意志薄弱・目的薄弱・思想薄弱・人格薄弱・・・日常生活で自分が何をやっているのか、それをやってどうなるのか、どうなっているのか、自分の生活・自分の人生に関心がない。
(自覚レッスンに取り組んでいても自己への探究心が伴って出て来ないのはニセモノ)
そういう点を指摘すると、「関心はある、もっと考えたい」とか云う。
でも、云うだけで、実際は、「関心がない、考えようともしていない」(という自覚がない)
自分の頭で考えて行動する人が増えれば、「やらされる」感は自然消滅・死語になるだろうね。
真の人間は、真実の自分、本当の幸福、真目的、真実の生き方を、欲求し、指向し、より良い社会を創造し、考え行動する日常生活を送るだろう。

Category: < つれづれ > | 2008.03.27 Thu 10:00

順序と道筋

ヤマギシ経て来た殆どの人に「幸福社会実現」みたいな言葉はインプットされてるよね。
でも、実体のない空想・妄想みたいなものでね。
会員さんも鈴鹿にきた元参画者も「社会づくりやりたい」って来たけどね。
「やってみせてよ」と云いたい。
せいぜい仲良しサークルの「ごっこ」の域を出ないよね。(精神面だけの・・・)
社会像が全くないと云いたいくらい貧弱。
  (ヤマギシの形態を引き摺った仲良し社会・一体社会とか・・・)

社会とは何か?をやっていくと、どこかにあるのではなく、長年刷り込まれてできた頭の中の社会観が社会を形成しているのではないか。
現状は、どんな社会観で生きて暮らしているのか、どんな社会になっているのか。
すると、社会観の元には人間観があるな。人間観・人生観が制度・機構や政治・経済に至る社会の根幹を成しているな。
現状は、どんな人間観・人生観で暮らしているか。
これも、長年刷り込まれてきたもの。
果たして、人間とは、人生とは、と行きたいところだが、その前に・・・・、
現状の自分は、どんな「観」になっているのか、自己観察 ⇒ 客観視 ⇒ 自覚 という課題が浮き彫りになってくる。
自分の観念の自覚もなく、人間や人生の一般論の議論に熱を入れている姿はチョット辱かしい。
人生とは、社会とは、と行く前に「自分を知る」を重視する所以です。
自分を知って、人生を知って、それから社会を論じられるのではないか、という見解から、研鑽ライフセンターの今日の構成ができてきた訳です。

Category: マイプロフィール | 2008.03.18 Tue 08:00

懐古・回顧 かな?

このホームページの始まりは2004年。最初の頃は、ヤマギシ時代のものを載せていた。
今は、< 小論 と 解説 >というコーナーにまとめてある。
1993年~1998年、毎月のテーマ解説を書いていた。下記は、その頃のもので、タイトルは見たことあるけど、紙面には出してなかった気がする。ある意味で、僕のルーツのような一面もあるので、改めて紹介します。
 ↓↓ クリック

Category: < つれづれ > | 2008.03.09 Sun 10:00

それは 手段か 目的か

「共に」というのは、広い意味で云えば、私は地球上に住む全ての人と共に生きているとも思う。
これを煎じ詰めると、「目的を共にする」「生き方・考え方を共にする」ということになると思う。
同じ組織に所属したり、同じ研鑽会に参加していたり、それも広い意味では「共に」ではあるが、「目的や考え方を共にする人」とは限らない。却って、遠くの知らないところに「目的や考え方を共にする人」がいるかもしれない。


研鑽会や会社や各種活動があってそれに加わっていても、それぞれ思い思いの参加であって、その中には共鳴・共感する人も多いが、目的も考え方もずいぶん違うなと思う人も多いです。
同志とか仲間と思い違いし易いもので、その実は同志でも仲間でもないです。

僕なりの目指すものやあり方があります。その目的や考え方を共にする人たちで実現をはかる活動をしているつもりです。
どこまで出来たか、進んだか、それは、その目指すものの実現以外にありません。

研鑽コミュニティも研鑽ライフセンターも研究所も各種の研鑽会も凡ゆる活動が、その実現のための手段です。出来たものでもなければ、目指すものでもありません。ただの手段です。
これらの手段を目的のように思ってやっている人も多くいるようにも感じますが、共感しないです。いろいろな活動や場ができつつありますが、それを共にやろう、の人が多い気がします。
 例えば・・・、
 自家配合で緑餌たっぷり採光の良い平飼い鶏舎で有精卵、自然と人為を基調にした養鶏とか・・・
 地球にやさしい、環境にやさしい、自然をふんだんに取り入れた云々とか・・・
 みんなが力を合わせて、持ち寄りで、和気あいあいとした社会を作りたい、とか・・・

 その事を良い事のように思って、その事に賛同して、その事を共にやろう、となりがち。

現象化した手段は、本質的なもの・本当の目的の方向へのキッカケを生むための前渉行程です。
目的や考え方があって、鶏でもやるか、会社でもやるか、なるべく目的に適いそうなものやろか、となる。
みんなが喜びそうな事、人が集まりそうな事、やろうかというのとは違うもの。
やろうとしている事柄よりも、やろうとしている人の中でどうなっているかに関心があります。それは 手段か 目的か。

Category: < 人 間 理 > | 2008.03.07 Fri 09:00

その人 受けたもの 現象化


 ↓ 山岸さんの声の抜粋です。((1958.12.9 録音より)

Category: < 研鑽の理 > | 2008.02.26 Tue 12:00

(2008.2.23) 発表内容の骨子

調べる・科学する・研鑽する
人とはどういうものか、社会とはどういうものか、を純粋客観で調べようとする。「本当はどうか」「事実・実際はどうか」
問題・間違いがあるから研鑽する ⇒ 問題・間違いと思うものがなくなれば研鑽しない ⇒ 研鑽というものをそう捉えている ⇒ いつまでたっても、そのものを科学する研鑽が始まらない
解消したと思えたら(良くなれば)、良いとする・・・自己盲信・宗教・覚せい剤・幸福感
悩み・苦しみ・争い・間違い・問題を前提にした人間学・社会学は、科学とは言えない。
宇宙科学・物質科学・・・宇宙や物質に問題があるから科学する訳ではないだろう。
人や社会に対する問題視(主観)を持っていては、研鑽科学は始まらない。


欲求 ~ 意志 ~ 感情 などについて
脳の働きによって現われるものだが、周囲・環境から受けたものによって形成された観念の影響が大きい。
目標・やりがい・生きがいを持って、
やりたい(欲求)、やろう(意志)、やった・やれた喜び・満足(感情)
こんな仕事をやりたい、掲げた目標をやろう、願いが叶って嬉しい
欲求~~感情などは自分の中から出る自然なものと見てしまいがち。
殆どが周囲から受けた(植え付けられた)観念によるもの。
他の人が嫌がるような欲求・意志・感情という場合もあるだろうが、
その人そのものが悪い訳ではなく、受けたものによって、そのような欲求・意志・感情が湧く観念になっているのだろう。
良い大学に入りたい、競争に勝ちたい、出世したい、音楽家になりたい、お金持ちになりたい、人を倒したい、死にたい・・・・
その人そのものの欲求と云えるだろうか? 意志や感情についても・・・。


調教された動物
人間の指示で動くサーカスの動物・介助犬・警察犬など 自身の意志からの行動とは云えないだろう。
人間の指示通りに動くのを「賢い」とか「偉い」と見る。
よく躾けられた子供がおとなの言うことをよく聞くのを「賢い」とか「偉い」と見る。子供自身の意志からの行動と云えるだろうか。
法を忠実に守って、真面目によく働く人を「良い人」「立派な人」と見る。
「アメとムチで芸をしこまれた動物」に似ている
規則・賞罰・評価・金銭・報酬・道徳などで動く人間、いやいやではなく積極的にこれらを使いこなして生きている。「よく調教された人間」
自分で考えて自分の意志で動いているつもり。
決められたことをやれない動物・人よりも、決められた通りにやる動物・人を「賢い」とか「偉い」と見る・・・今の世の中の人間観


やらせる・やめさせる
野生の動物や人間の赤ちゃんなど、やらせたりやめさせたりできない。
調教した動物、分別を教えた人間は、やらせたりやめさせたりできる。
やらせたりやめさせたりできるのを知能が高いと云っているのだろうか。
命令や「飴と鞭」の賞罰、規則・罰則は一方だけでは成立しない。
つまり、命令する・命令される、罰する・罰せられるという共通観念が必要。
野生動物や赤ちゃんには命令される・罰せられる観念がないから効き目がない成立しない。
やらせるやめさせるが当り前になっている今の人間界。
それができるように・・・教育制度は人間調教のようなもの。
リモートコントロールのロボットのような回路を、人間の頭の中に埋め込み、報酬・賞罰・道徳・規則・命令などで、人を操作できるように調教している。


自由欲求 自由意志 の領域へ

Category: < つれづれ > | 2008.02.04 Mon 22:00

明日に生きたい

「今を生きる」とか「今に生きる」というフレーズを好む人がいるけど、僕はどちらかというと嫌いだな。
難病などで、あと数ヶ月の命という人の言葉なら分かる気もする。

「先を大事にする」のか、「今を大事にする」のか、と問えば、多くの人が「今を大事にする」と言いそうだ。
僕は「先を大事にする」
「先を大事にする人の今」と「今を大事にする人の今」とは、同じ「今」でも全然違ってくる。
願いや念いを抱いて、今を生きていると、願いや念いに向かっていると勘違いし易い。それは自己満足の幻想だと思う。

実現すべくハッキリとした将来を画いている人は、そのために今、何をやるかが具体的に現実的になってくる。「願ってやる」という程度の甘いもんじゃない。
「先を大事にしない人」は目前のやることに拘泥している。今やることを大事にしている。「何をやっているんだろう?」
「人に聞いてやる」タイプの人は、みんなこれだな。

「先を大事にする人」というのは、実現すべく将来のことを自分の頭で考えている人。
このように進めたい、これを実現したい、その為には今ここをやろう、となる。

自分には本当に実現したい将来があるのか、自問してみたらいい。
そして、実現したい将来があるなら、そのために自分はどうするかを自分で決めて実行すればいい。


今人並以上苦労しても、孫子の代も沢山の人が楽になるようにと、先の大きな楽しみに生きられる人々が相寄って相談し、一時は裸になっても、借金してでも、何処かの一角から、後で度々改修しなくてよい立派な道路と、交通整理係も要らない道標を創り、乗り物も用意し、これならいけると、誰でも共鳴して協力されるキッカケを、・・・・第二章 構成 四 要約

 今日の問題に忙殺されている中にも、明日の破綻を防ぎ、光彩輝く将来を画策・施工して置く事で、今日は苦しく共、むしろそれに総てを賭ける方が、賢明だと信じています。

私はこの真理を確信しますが故に、同じ考え方の人々と共に、明日の楽しみに生きて居るつもりですが、・・・・二 本旨 心あらば愛児に楽園を 1.源泉の涵養
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