研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学 思想 研究 ――
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Category: <無所有一体へ> | 2005.02.22 Tue 21:32

3.無所有社会について

「無所有」の語は、ここでの専用語でもなく、例えば仏教系の資料などでは度々お目にかかる。
「無所有」とは、主に人間の心境、いわゆる執われのない境地のことを云うことが多いようだ。
ここでも「無所有観念」という場合は、所有観念から解放された状態、所有が植え付けられる前の元々の人間の観念、我欲・我執のない状態などを指している。
今の世の中は、所有という制度を用いて、人と人との間を保ち社会を構成していると言っても過言でない程にまで、人心観念界に所有という概念は深く浸透している。所有観念が身に付くまでには、相当のエネルギーを要していると思うが、社会全体が所有を基盤にして動いているから、幼い頃から所有を教える特訓をすることが親の責務となっている。所有を知らない子供は親の責任となる。
「所有」という共通の概念を持ち、その「所有」を基盤にした社会制度を設けている。
「無所有」が、理に叶った人間の自然な姿、正しいあり方だとしても、それは、心境や意識や観念の状態のことであって、そこから「無所有」の人の営みとはどういうものか、つまり「無所有の人間社会」というものを考えてみたい。
前にも述べた通り、人間以外の動物世界は「無所有」であると思うが、人間には人間ならではの営みがあるので、人間が他の動物と同じように暮らせば「無所有社会」だというものではないと思う。人間には人間の暮らし方があるから、人間は他の動物のようには暮らせないと思う。前後するが、そういう論から、所有や権利・義務、法律・罰則なども、人間ならではの営みだと言う人も当然多い思う。
「無所有社会」とは、人間らしさを排除した自然原始的社会ではなく、所有や権利・義務、法律・罰則に依らない、それよりもっと人間らしい営みの社会である。
法律や罰則を設けなくても、仲良く円滑に安定した社会生活が営めれば、それを嫌がる人はいないと思うが、それが出来ないから法律や罰則が要るのだろう。同様に、互いの欲求や必要を認め合って、仲良く適切に使い合えれば、誰々のものだから勝手に使ってはいけない等と監視し合って所有を守らなくても安心して暮らせるだろう。
そういう人間社会は無理なのだろうか。

所有して囲う必要がない社会。誰のものでもない、誰が使ってもよくて、奪い合いや争いが起こらない社会。お金や権力が必要なく、物も人も欲しているところ、必要とされているところへ、流れるようにスムーズに動いていく。人の心や意識が「無所有」であるだけでなく、社会の機構・制度も「無所有」に基づいたもの。

このように「無所有」に基づく人間の営み、「無所有社会」を考えてみると、「無所有」という言葉の持つ意味、例えば「執着・我欲・我執がない」等の他に、大事な人間的要素が浮かび上がってくると思う。
それは、ひとことで言うと「人間観」かと思う。つまり、人間性とは何か、人間とはどういうものかを知ることだとも云える。
昔から、性善説とか性悪説とか云われるが、どちらでもなく、人間とはどういうものか。放っておいたら、何をするか分からないのか。とても悪いことをする人がいるから、囲いが要る、取り締りが要る・・・・、と罰則を設けている。悪いことをする人向けの社会とも云える。
人間は、そういうものを設けないと、他を侵したり独り占めしたりするのだろうか、法律や罰則もなく、奪い合い争いもなく、協力し合う人間社会を研究したいと思う。
助け合い、協力し合い、譲り合い、贈り合いを否定する人はいないと思うが、所有や罰則なく、それだけで人間社会がいけると思う人は少ないかもしれない。

「やはり、所有や罰則は要る」としている既成観念を外して、零から人間を見直してみると、「所有や罰則の要らない社会」の要素が見つけ出されて浮かび上がってくる。

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.13 Sun 21:30

2.無所有について

ここでいう「無所有」とは、「所有」という概念がが無いという意。
不所有・非所有・所有しない・所有物がない、等ではなく「所有」そのものが無い。
「所有」は人間が作り出した概念で、他にも、権利・義務・道徳・法律・規則・お金・国境、等々、人間が作り出したものによって、今日の人間社会は構成され、それに基づいて暮らしている。
これらは、人間が作り出したものだが、あたかも実際に存在するものであるかの如く捉えられていて、所有やお金や規則などの無い人間社会など考えられない程にまで、強く思い込まれている。
「無所有」ということを言葉のイメージから、所有物が無い状態と思う人がいるが、物が無く一文無しの人でも、何かを与えられて自分の物にしたり、物は無くても自分の体は自分の物だとしている場合があるから、いずれの場合も「所有」がある。
自分の物は何も無いという人達が、そこにある物を、誰も自分の物とは思ってなくても、「私達の物」とか「みんなの物」としている場合も、そこには「所有」がある。
「無所有」の人、暮らし、社会などをイメージすると、今の資本主義の私有財産制ではないことは分かるが、そうなると、共産主義社会や共同体的なイメージを抱くかもしれないが、いずれの場合も、個人所有に替わる集団所有・共同所有であって「所有」には変わりがない。

動物が獲物を奪って争ったり、乳幼児が物を取り合って喧嘩したりするが、「所有欲」がある訳ではない。本能的欲求や、欲しい使いたいという思いから、奪ったり、けんかしたりするが、その外見や形態を指して「所有」があるとは云えない。
「所有欲」や「権力欲」など、自然な欲求のように云う人もいるが、その元に「所有」とか「権力」という人間が作り出した観念がなければ、「所有欲」や「権力欲」はあり得ない。
動物の世界の外見や形態を見て、「権力」や「所有」だと思う場合、それは人間寄りの見方・受け取り方であって、「所有」とは何か、「権力」とは何か、を明らかにすれば、動物の世界には、そのような概念は通用しないことが分かると思う。

動物の世界は「無所有」である。「所有観念」が着く以前の乳幼児は「無所有」である。
人間の営みには、「今欲しい」「今使っている」「後に使うために用意する」「何かに備えて必要以上に用意する」「蓄える」「保管する」等々は当然あるが、そこに「所有」のない状態。
つまり「私の物」とか「みんなの物」とかではなく、誰のものでもない。
「これは○○のもの」だから「△△は使ってはいけない」と決めているのが人間の所有観念。
動物は無所有だから、所有観念は通用しない。○○のものだから、△△は使ってはいけない、ということが通用しない。通用するのは所有観念のある人間だけ。
そういう観念づけをしなければ、元々、どんな物でも、誰のものでもない、使ってはいけない物など何もない、使ってはいけない人などいない。
誰がいくら作って用意しても、誰がいくら蓄えても、誰のものでもない、誰でも使うことができる。
誰かが大変な労力を投じて作った物でも、作った人の物でもない、材料を提供した人の物でもない、誰のものでもない、誰が使ってもよい。

「無所有」だから、使ってはいけない物、使ってはいけない人、が何もない。
空気を例にとると、空気を使ってはいけない人などない。
「生きる権利があるから」なんていう後から付けたような理屈は要らない。
「権利」は人間が作ったもの、権利なんて無くていい、誰でも使えるのだから。
「生きる権利」なんて言うなら、腹をすかした人が店にある物を取って食べても咎めることはできないだろう。
「生きる権利」なんて言うなら、人間の都合だけでなく、どんな動物でも殺して食べるなんてことはできないだろう。
「権利」なんて要らない。

空気のように凡ゆる物を誰もが使えるのが「無所有」
人間以外の世界は、そうなっている。
奪い合い、争い、独り占めが起こるから、混乱を避けようとして、所有を設けたのかもしれないが、所有を設けても、奪い合い、争い、独り占めは絶えない。
むしろ、幼い頃から所有を教え植え付けられ、所有拡大指向が蔓延しているから、所有欲求は際限ない。
つまり、所有があることによって、奪い合い、争い、独り占めは激化している。
動物の場合、食べるため、生きていくために奪い合い争うことはあるかもしれないが、所有を拡大するために争うことはない。
動物の本能的欲求と、人間の観念的所有欲とは、ハッキリ区別する必要がある。
つづく

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.12 Sat 21:29

1.所有について

所有というものは、いつから、どうして、できたのだろう。
所有とは? を調べてみると、自分が欲しい使いたいものを、持っているとか確保している、というだけでは所有にはならない。
それは、動物を例にすれば分かり易い。
動物も自分が食べようとするものを、口にくわえたり手に持ったり、或いは一時的に穴を掘って埋めたりもする。でも、そのような行動を指して、その動物が所有しているとは云わない。
「所有する」ということは、一般に「その人が持っている」とか、「その人が自由に使える」ということを意味していると受け取り易いが、それよりも「他の人は自由に使えない」という「使用の禁止・制限」が、「所有」の実態だと思う。
空気のように誰も所有していない物は、誰でも自由に使える。所有しなくても自由に使える。だから、所有するということは、自分が自由に使えるために所有するのではなく、他の人が自由に使えなくさせるために所有するのだと云える。

今の社会は、全てが所有で埋め尽くされているような社会で、「誰かの所有物」になっているものばかりだから、それ以外の人は自由に使えない物ばかりだ。そういう社会の中で、自分が自由に使えるようにするには、そのものを自分の所有物にして、他の人には自由に使わせないようにしなければ、自分が自由に使えないから、自分の所有物にする必要がある。

自然豊かな熱帯では、フルーツなど自分で採って食べ放題の地域がある。誰も所有していないし、誰も所有していないからこそ、誰もが自由に採って食べられる。所有する必要がない。

所有とは、人間が作り出した概念である。
当人が、いくら自分の物だ、自分の所有物だ、と思っても、それだけでは所有にはならない。
周囲・社会が、それは「誰々の物だ」との共通認識があることによって、はじめて当人の「私の所有物だ」ということが成立する。

拾った物、どこかから勝手に持ってきた物でも、その人が「自分の物だ」として、周りも「その人の物だ」と認めれば、その人の所有物になって、他の人は勝手に使えない。使うには、その人の許可が要る。
でも、あとになって、元の持ち主が現れて、それは「私の物だ」とされると簡単に所有者が変わる。そうした場合、証拠がなくて両者が「私の物だ」と主張し合うと、そこに争いが起こる。

金を介してとか、或るいは口約束だけでも、一瞬にして、私の物から、あなたの物へと変わる。変えられる。所有は人の思い次第で、どうにでもなる。

例えば、自他共にAさんの物だと認められている物を、全然関係のないBさんが勝手に持って行って使いたいように使ったとしても、Aさんが何の文句も言わなければ、どうなるのだろう。
すぐに、Bさんの物になるか、どうか、知らないが、少なくとも、Aさんの物でなくなるのは、Aさん次第で簡単になるような気がする。

廃棄物(ゴミ)などは顕著な例で、有用な時は「自分の物だ」と主張したり守ったりするが、不要になると、トタンに自分の物ではなくなる。周囲から「あなたの物だ」と認められることが却って迷惑に思うことすらある。
要る間は自分の物にしておきたくて、要らなくなったら自分の物ではなくしたい、という随分、都合のいい身勝手なものだ。

土地を所有するというのも人間の勝手さが伺える。その土地には様々な生物が暮らしているのに、それらを生かすも殺すも追い出すのも所有者次第ということになる。
その土地の中のもので、所有者が要らないと思っている物は、他の人が持って行っても文句は云わず、要るものは「自分の物だ」と主張する。中には、その土地に足を踏み入れることすら許さないという所有者もいる。自然に生えたタケノコやマツタケ等を、「自分の物だ」と争うケースがあるが、まるで滑稽で、人間の馬鹿さを見る思いがする。

海の海域にも所有があるらしい。海域を所有すると、そこに住む魚を所有していることになるらしい。いったい人間は何をやっているのか。
国境や領土に関する国家間の問題は、みな所有から来ている。
人間が作って設けた、国境や領土という所有の概念。それをめぐって人間同士争い合っている。

所有の起源は、おそらく他から侵されることなく、「自由に使える状態を守る」ためにできたのだと思う。そこには、力の弱い者を守るという意味も込められていたかもしれない。
しかし、所有という概念が「他の使用を禁止する」というものである限り、力の強い者は益々所有を拡大する。
法の下の平等は謳われているが、その法自体が所有を守る法だから、法にそって力のある者は所有を拡大し、力のない者は所有が少ない。
中には力づくでも領土を広げたり、人を従わせたりして、所有を拡大する者がいる。一旦、所有すると、自他共に認める、その人、或いは、その国その組織の所有物になる。

今の人間社会は、所有一色のような気がするが、やがてこれも崩壊して、所有のない世界になると思う。
もしも、法を設けるなら、「なんびとも誰の使用の禁止・制限もしない」という法を設けたら如何がなものだろう。
自然の産物はもちろん、農産物も工業生産品も全て誰もが「自由に使える状態を守る法」を設けては如何なものだろう。

「そんなことしたら無茶苦茶になる、社会が成り立たない」と思うのは、あまりに知恵がない。
人間が協力し合って、人間の知能を駆使すれば、いい方法(法)を産み出せると思う。

2005.2.12

Category: < 研鑽の理 > | 2005.01.30 Sun 07:39

つれづれ無為乱筆3

生まれたばかりのライオンを、オリの中に入れて育てたらどうなるのだろう。
動物には環境適応性というか順応性があるだろうから、生育に必要な日光や空気、適度な飲食物があれば、それなりに成長すると思う。
大きくなってから多くの動物がいる広い草原に放したら、どうなるだろうか。
眠っていた本能が目覚めて、それまでになく活動的になり、“水を得た魚のように”広い草原で伸び伸びと走り回って暮らすようになるだろうか。
或いは、個体差があったり、年齢によっては、高齢になればなるほど、オリの中でしか生きられなくなっているかもしれない。草原で生きるのが本来のライオンだとしても、生まれてから一度も草原を体験しないで、成長したら、さすがのライオンでも、草原では生きられないライオンができるかもしれない。
ライオンの本来の姿とは、どういうものだろう。或いは、動物は環境に適応して生きていくのだから、そのもの本来の姿なんて、ないのだろうか。

さて、人間の場合は、どうだろう。
何ものにも縛られることなく、自由闊達・積極的で、明るく元気で、心豊かで、情厚く、生き生き伸び伸びと健康でありたいと、私は思う。
人間も自然界に生まれた動物だから、環境適応力や順応性がある。地球上の様々な自然環境に適応して暮らしている。
先に述べた、ライオンのように生まれた時から、オリの中で成長し、大きくなってから、オリから出たら、どうなるだろうか?

人間の場合、自然環境だけではなく、人為的に環境を作り、囲いや境界を設け、規則や罰則、道徳などの様々な規律を設けて暮らしている。
こういうものは人間にしか出来ないことだから、これこそ人間らしい営みだ、という人もいる。
また、このような人為的な規律を無くしたら、他の動物の同じだ、という人もいる。

今日の人間社会で、人が成長する環境を見てみると、“あれはしてはいけない”、“これはしなければいけない”、“これは良いことだ”、“あれは悪いことだ”、“これはこうなっている”、“ここではこうするものだ”、等々の決まりごとを教え植え付けることが教育や躾けの主たる目的になっているような気がする。
これも、ある意味では、生まれた時から厳重なオリの中で暮らしているようなものだと云えないだろうか。
こういうものを取り払ったら、人間らしさを失い、人間は獣のようになってしまうのだろうか。
オリを取り払ったら、伸び伸びと本来の人間らしさが発露するのか、或いは、何処に居たらよいのか何をしたらよいのか分からず、不安にかられて、オリの中の方が安心だ、となるのか。

“すめばみやこ”という言葉があるくらい、環境適応力とはエライもので、オリの中でも不自由を感じない、オリがないと不安になる、というところまで人間は行っているような気がする。
・山のようにたくさん積まれた物は、食べるため使うために生産されたのだろうが、使いたくても欲しくても、お金のない人には得られない。
・人間が設けた国境の向こうへ行きたくても、パスポートやビザが無ければ行けない。
・テレビやゲーム等あそび道具がないと遊べない子供は、原っぱへ行っても“遊ぶものがなくてツマラナイ”ということになる。
・社会の間違いは指摘するが、その社会の中で上手に生きていこうとする。

人間は、人間ならではの頭脳や技術という特徴を生かして、他の動物には真似られない営みをする動物だと思うが、現状を見る限り、人間が作って設けたもので、人間同士が縛りあい、押し付け合い、不愉快な思いを我慢しながらも、諦めに似た先入観からか、不自由も不満も感じなくなっているようだ。他の動物以下のところが随分あると思う。

オリは、人間社会には必要だ、という人もいる。
オリがあるからといって、不自由ではない、という人もいる。
オリという表現が間違っている。規律や道徳は、人間ならではの立派な文明の証だ、という人もいる。

人倫・道徳・人の道・・・・社会性や社会規範、等々を人間らしさとして唱え教えるものは昔から多くあるが、そういうものを強調すればするほど、自然な自由さが失われていくように感じる。つまり、人間らしさから離れていくように思う。
自然な自由さなどは、野性的で人間らしくない、という人もいるのだろうか・・・・。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.01.29 Sat 07:37

つれづれ無為乱筆2

天動説の時代に、地動説を唱えても誰も聞き入れようとしない。
天動説は、人間の視覚、感覚を頼りに想像したものだろう。
地動説は、事実を客観的に観測して出てきたものだろう。

今では、地動説が当たり前とされているが、地表が動いていることを、視覚や感覚では捉えることはできない。視覚的には、やはり太陽や月が動いているように見える。
これは、人間がどれだけ進化しても同じなのではないだろうか。つまり、地表が球面であるとか、自転・公転しているとか、人間の感覚では捉えられないのではないだろうか。

他の動物のことは分からないが、少なくとも人間は人間の知能を働かせ、事実を観測し調べることによって、事実を捉えることができるのだと思う。しかし、人知を駆使して、どこまで行っても、「事実を捉えきれた」と断定し得ないのではないだろうか。それが人間なのではないだろうか。

天動説が間違いで、地動説が正しい、というのではなく、天が動いているように見えるが実際に調べてみると地表が動いているといった方が適切ではないか。とか、また或る見方をすれば、動いているというのは相対的なことなのだから、両方とも動いているとか、天の動きによって、地球が動いているように観測できるのだという論もあると思う。
見方、捉え方によって、一律に結論づけられないのではないか。

地表は、平面か、球面か、という問いもどうだろう。
人間のおおかたの感覚では、地表は平面だと感じ、学校で習ったように「遠くの水平線に見える船は下の方が見えない」等の観測を経て、平面でないらしいと思う。
地球は、なめらかに丸いのはなくて、無数の多面体という人もいるかもしれない。

人間の能力は、知能や五感だけでなく、第六感と呼ばれるもの、遠くの事を見たり聞いたりできる人、見えないものが見えたり感じたりする能力、等々。
地震や気象を予知・感知する能力は人間よりも他の動物の方が鋭いとか。

多くの人には見えない聞こえないものを、或る人には見える聞こえる、となると、その人は超能力者だとか霊能力者だということになる。
それは、他の多くの人たちによって実証されたからだろう。
誰にも、実証されないことを見える聞こえる、と言っても、幻覚・幻聴・妄想の狂人あつかいされるのかもしれない。
多くの人に実証されないだけで、実際に事実、見える聞こえるのかもしれない。

天動説の時代に、地動説を唱えても、狂人あつかいされる原因はここにある。
ずっと、先になって、地動説が実証されると、かつての狂人が天才になる。

人類の歴史は、こういったことをずっと繰り返してきているのではないか。
今日の天才は、過去の狂人であり、今日の天才・超能力者も、また将来ではどんな扱いされるやら・・・。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.01.28 Fri 07:33

つれづれ無為乱筆1

凡ゆる現象の元には無現象があるのではないか。
それは、物理とか、その現象の因果関係とか、他との繋がりとか・・・・。
人間の思考・言動も、無現象が元になっている。
よって、人間の元なるもの、無現象が重要なのである。
それは、心の世界というか、或いは、魂とか霊とかというものかもしれない。
知能の働きは現象だが、知能の働きが無現象・心を大きく左右する。
知能の働きの元にある無現象。
無現象を科学する知能。

現象ばかりを扱うのではダメで、現象を扱うにも、真に現象を扱おうとしたら、無現象を知らねば、現象を知ることはできない。
物を知るには、必要な物理を知る。
人間を知るには、人間理を知る必要がある。
理は何にでもあるもので、理の顕われを「あり方」とも云えるし「真実」とも云える。
理そのものは無現象。
観念にも理に即した観念がある。本当の観念--観念理--理念
物理が明らかになれば、当然それに即して、物理を応用・実用して物を扱っていく。
観念理(理念)が明らかになれば、それに即した観念で生きていくだろう。・・・か?


現象を解明していくと・・・・・・・・どこまでが現象か?
磁力・電波・音・光・重力(引力)・・・欲求・感情・思考・・・(無形の現象)

観測・計測が高度化されて、現象を正確に捉えて応用・実用できるようになったと思っても、現象科学のみに立脚している限り、物の本質、つまり無現象は明らかにならない。

無現象は感じるものでなく、現象によって存在を知ることができる。現象を捉えて想像したり類推するものでもない。現象をありのまま受け取り、その現象がどういうものかと解明することによって、無現象の存在を知ることになる。
現象をありのまま受け取る・検べる・・・これができるか否かにかかっている。
真実を見つけ出すのも、人の心を知るのも・・・・これができるか否かにかかっている。

純粋客観科学に立たねば、無現象に届かない。

「理念」を云う前に、まず「事実」を知る。 事実の「成り立ち」を知る。
「この世界に固定しているものは何もない」「この世界に単独で存在しているものは何もない」・・・・ことを知る(とことん肚の底から体に染み込ませる)。

○理念から行ければ、本当に楽なんだけど・・・・・・
理念からいけない強い強い観念があるから。 その観念を棚上げ、取り除く。
既成の観念には多くの原因があるから、取り除くのは容易でないのか。
視点が、焦点が、「理念」の方にポイっと切り替わると、ナンデモないくらい簡単なんだけど・・・・。
豊かさ 楽しさ 平和 快適 安心 社会 幸福人生・・・・・
みんな、みんな現象で捉えないで、理念から行く。

心底求めているもの、欲しているものは、うわべのものでなく本当のものの筈なのだから、本当のものを得るには、本当から行かねば。
現象を観念で追っていても、本当のものに届かない。


○事実を見る聞く  そして  真実(本当)を見る聞く
本当の社会をつくりたい、本当の実顕地をやりたい等、思っていても、本当というところにたっていない限り、唱えているにすぎない。
本当を願ってやっている。それで実際にやっていることは、どうなのか。
「本当を」と思ってやっているのは、思っていないよりいいような気もするが、だからといって、「本当を」と思っている人と思っていない人と比べてみて、「本当を」と思っている人の方が、「本当を」やっているとは限らない。
「本当を」と思っていない人でも、本当の人がいる。
「本当を」と思ってやっていることに、どれ程の価値があるのか。
本当(真実)とは何か。
本当(真実)とは何かを明らかにしないで、本当を思う気持ちでやっている。
それは、本当(真実)を知らないからだ。

良かった、悪かった、できた、できなかった、進んだ、遅れた、儲かった、損した、増えた、減った、上がった、下がった・・・・・
本当(真実)か、どうか、という価値観。
今まで、そういう価値観を知らない人には、サッパリ分からない。
真実か、真実でないか、どうやって見分けるの? 自分の感覚?

○昼の世界に住むということ・・・・明るくて、よく見える。
暗くて見えないのに、真実か、どうか、なんて無理だと思う。
明るくて見えれば、一目瞭然、真実か、どうか、すぐ分かる。
「真実の世界」「昼の世界」は、凡てが真実ということではなく、真実か、そうでないか、が明らかな世界。太陽に照らし出されて、事実実態真相が明らかになること。
暗い夜の世界では、何が真実で、何が真実でないか、が分からない。
暗い見えない世界だから夜用の価値観になるのは当然。疑心暗鬼、みな思い思いバラバラの価値観で、キメツケ、思い悩み、恐る恐る暮らしている。
明るくてよく見える世界なら、自ずと昼用の価値観になる。

みんなの考えで、みんなの中でやれば、持ち味に合わせて、楽にやれるのに、
自分の考えでやろうとして、自活し、生計を立てる道を択る
みんなの中でやることへの不信か?、不安か?、窮屈感か?、親しくないからか?、打ち明けられないからか?

1/28
人間の知恵の入らないものは、理に叶っていると云えるかもしれないが、人間がある限り知恵なしという現実はなく、他の動物ばかりなら本能だけの理に叶った動きとなるかもしれない。
人間がいることによって、人間の知恵が働くことによって、人間ならではの文明が生まれるので、知恵あるから理に叶わないでは、かなわんなぁー。
人間の知恵は、人間がより良く生きるために使われるべきで、物質文明など人間の知恵を人間がより良く暮らすように使われている面も多いが、知恵が先走り空回り脱線して方向を見失い、いつのまにか人間を苦しめることに使われている。
人間の頭脳は、どのようにも働くもので、人間を良くすることも悪くする方へも働くもので、どのように使うことが人間にとって良いか。
これに知能を用いれば、知恵を空回り脱線など、させなくてすむと思う。

Category: < 研鑽の理 > | 2004.12.12 Sun 22:52

真なるもの

普遍妥当性と思惟必然性をもつもの=真理
いつでもどこでも何人も、きっとそう考えねばならぬもの・・・真理
いつでもどこでも誰でも、きっとそう考えて落ち着く、ただ一つのもの

正しいとは、一に止まると書く。真理とは、このようなものではないか。
一切に通ずる永遠の原理
全体と結ばれたもの(全体的立場からみての行為)は真である

真とは時間的に永遠であり、空間的に無限
完とは真の内容(充実したもの)一貫したもの、実在

Category: < 人 間 理 > | 2004.12.12 Sun 22:48

真の姿

人生 -- 行為 -- 快適

自覚 -- 人格 -- 資格

Category: < 一体の理 > | 2004.12.10 Fri 22:49

一体の理

一体の理

すべてのものが繋がりがある。そして、相補(万物)の一体感は、絶対に不変の真理とす。


一個の私という存在は、全世界の凡てに関係あり、一事一物みな悉く全世界と関連していないものはない。
一切のものは互いに無限の関係に於いて存在している。
時間的に今日という一日は、決して昨日なしには存在しない。
今日は単なる今日でなくて、「昨日を背負い明日を孕んでいる今日」なのだ。
一切の事物は、みな孤立して存在しているのではなく、実は縦にも横にも無限の相補的関係にある。
即ち、無尽の縁起的関係にある。
従って、現在の私は、無限の空間と永遠の時間との交叉点に立っているのである。

Category: < 社 会 理 > | 2004.12.10 Fri 22:43

社会理

社会理

縦の目標---幸福(全人)    \
                         これは絶対で研鑽して行く真理の露面
横の繋がり---研鑚会(道・方法)/  (現象)は変転して行く。



縦には持ち味を発揮(最大効果的に)し(時間的にも)、横には一体感のつながり。

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