研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 精神革命 > ――
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Category: < 精神革命 > | 2005.08.22 Mon 08:37

予科課程 合宿研鑽会 より

画期的な初の試み、かつてない一週間でした。10人の実験台、その後は如何が?

参加者の一人一人が、研鑽会の内容や感想を喋らないで、態度や行動に滲み出るものを観たいです。

後半にやった二つの「なぜ」の問いを常に忘れないで、問い続けて欲しいです。
これは、研鑽体得への具現方式かとも思います。

一週間に一度くらいは寄って、継続的に中間報告会をやっていきたいですね。

予想した通り、殆どの人が、一週間では、いけなかった。
また、できることなら、もう一週間、入ってみよう。
それでも、だめなら、もう一週間、それでもだめなら、もう一週間・・・。

研鑽会でも日常でも
自分で考えて、自分を出さないのは、「自分の考えに自信がある」証かな?
寡黙 控え目 おとなしそう 奥ゆかしそう 反省調・・・ムッツリ我ん固
出さない人、黙っている人は、自分が大変な自信家であることに気付かない。

自信がないと、思いや考えも、どんどん湧いてきて、どしどし出したくなる。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.15 Mon 08:36

感覚・・・

感覚という観点で調べてみると、日常生活の殆どが、自分の感覚で判断し行動していることが分かる。
何を食べようかとか、どれくらいの量にしておこうかとか、エアコン使おうかとか、設定温度下げようかとか、・・・
また、緻密に費用計算して、それだけの費用をかけてやるか、やらないか、の判断も結局は感覚。「費用」対「効果」なんて言うけど、比べられないものを比べて、やっぱり最後は感覚。
近い方の道を行くために、距離を測って決定するというのは感覚ではないけど、「近い方を行く」という出どころは感覚。

感覚で判断・行動している、感覚に重点を置いている、ということを間違いとか、おかしいと言っているんじゃなくて、こういう事実・実態を知るというか、もっと、もっと認識することかと思う。
随分、確信もったり、絶対間違いないとか、絶対おかしいとか、変だとか、良かったとか、・・・凡てと言ってもいいくらいに、その人の感覚ではないか、とも思う。
こう思うのも、私の感覚。
となると・・・、・・・・・・ つづく

Category: < 精神革命 > | 2005.08.13 Sat 08:35

今夜は・・・

明日に備えてという訳ではないけど、今日は幸福研に行かなかった。
幸福研には各地から、いろんな面々が参加してるとのこと。賑やかで、楽しそう。

研鑽体得予科課程前夜
 なぜ、研鑽、研鑽と、そんなに研鑽にこだわるのかと、自問。
 研鑽の言葉は数え切れない程、使ってきたけど、
 研鑽よりも、信じて事を行なう方に力を入れていたのではないか。
 見映えや現象面の効果を望んでいる体質か。
 なぜ、それではいけないのか。なぜ、研鑽なのか。

 やはり、人間の傲慢さ、人間が設けた価値観・善悪・規範・道徳・法律・などでは、絶対に人間同士仲良くなれない、争いが絶えない。

 まず、人間が人間を知る(自分が自分を知る)。人間の存在・位置・役割り・能力・成り立ちを知って(自覚して)、人間らしく生きる。

 それには、今までの人間のように、人間の考えを振り回していてはダメだ。
 人間は人間自らを知って、これでいいのだろうか、間違っているのではないだろうかと、絶えず人と共に見直し見直し、正しく生きて行こうするところに、人間らしさが顕われるのではないだろうか。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.13 Sat 08:34

あしたから・・・研鑽体得・・・

「盲信」って自覚のないもののことらしい。
信じ込み、思い込み、キメツケ、自覚のない「自己盲信」

客観に立ってこそ自覚が生まれる。事実を見る聞く=「客観」 自分を客観する。
それには、自分の思い、気持ち、感情など、そのまま出して捉えてみる。
客観しようとして、自分の思い・気持ち・感情など、いけないものとして引っ込める人がいる。ますます、自分が見えない。

朝起きる時も何か信じていないか、食事をする時も何か信じていないか、テレビを見る時も何か信じていないか、楽しい時、嬉しい時、面白い時、感動する時、何か信じていないか、・・・
信じている状態は、固定キメツケがベースにある。より本当を指向する考えが止まっている。

研鑽生活していますか?
「いいえ、してません。」 これこそ最も頑固、自己盲信、自信過剰・・・。
盲信生活していますか?
「・・・・」

やはり、自分に自信があるから、自分で考えて自分で行動してるんだと思う。
研鑽は、人と話をする等の形ではない。その人の内面のこと。
研鑽がないのは、その人の自分に対する自信の現われだと思う。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.13 Sat 08:33

研鑽をしようとして・・・

暮らしや職場の仕事でも、より本当を目指して、前進して行こうとして、寄って話し合う機会を設けたり・・・、

そこで、研鑽になるか、どうか・・・。
やはり、やろうとしていることの目的は何か、そして、そのやろうとしていることが目的にかなった手段・方法か、どうか・・・、

いつも、いつも、焦点が、ここにあるか、どうか。
何かことをやろうとして、やり始めると、「やる」ということが前提になって、そうすると次から次へと前提が増えていって、「あれがある」「これもある」「その上でどうしたらいいか?」などなど、で研鑽しているつもりになる。

殆どが決めた前提の上に乗っかって、極々狭い範囲を右往左往、苦心する。
「あれもやめられる」「これもやめられる」「そしたら、あれも、これも、みんなできる」

自分の中にある前提だけでなく、みんなで前提を持ってるから、前提を持っていることに気付かない。無自覚。
固定・前提・キメツケ・常識化しているもの(盲信)に気付く研鑽。
先ずは、研鑽の目標をそこに置いて研鑽会する。

いつもいつも、ああしたらどうか、これはどうしようか、と考え行なう中にも、「前提を持っていないだろうか」「決めて外せないとしているものはないだろうか」と、それの発見のために、みんな寄っての「話し合い研鑽」。

そうやってみて、「これも外せない」「あれも動かせない」「ああ、これも決めてるなぁ」「受けたんだからやらなきゃ」「約束したから相手に迷惑かかる」等々、キメツケ・盲信の実態を続々発見するための暮らし。研鑽会。
研鑽生活になろう筈がない盲信生活の実態を自覚する。楽しい。愉快。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.13 Sat 08:32

研鑽が実現したら・・・

どうなるか、ということは、研鑽を実現したら分かることで、
研鑽を実現しないままで、「どうなるか」を論じてもね。

研鑽ということには惹かれるけど、研鑽って何なのか、研鑽が実現しているのか実現していないのか、分からない。
と、このままでは何も進まないから、やはり、研鑽状態と、そうでない状態ということも、ある意味で必要かな、とも思う。

研鑽状態とは、キメツケなく、本当はどうか、と考え行動している状態。
・・・と、これは誰でも知ってるね。「わかってる!!」というヤツだ。
・・・で、「どうなるの?」と現象面への現われを知りたがる。結果主義というヤツだ。
研鑽状態か、どうか、「現象面に現れる筈だ」と、自分が現象面しか見えないものだから、なんとか現象面で判別しようとする。
でも・・・、研鑽状態は、研鑽があるか、ないか、で、現象面のことではないですから、ザンネーン!!

まあ、あえて言うなら、「新しい発想がドンドン生まれる」「間違いが続々と発見される」「現象面はコロコロと変貌する」・・・etc.
まあ、研鑽あれば、この程度の現われはあると思うけど、
こういう現象あれば、研鑽あるかと言えば、そうじゃない・・・と、逆は言えないから、現象から見ようとする人には研鑽あるか、ないか、見えない、ザンネーン・・・。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.08 Mon 08:32

研鑽 と 盲信

山岸会・特講・研鑽学校・ヤマギシ、でやってきたことは、
正しく本当であろうと思われる人間や社会のあり方・考え方・生き方等を調べて実践することで、
そういうことをひっくるめて、「ヤマギシズム」とか「研鑽」と呼んでいたように思う。

しかし、本当を見つけ出して実践することが、「ヤマギシズム」や「研鑽」ではなく、
「ヤマギシズム」や「研鑚」によって、本当を見つけ出し実践することだと思う。

この差異は大変なもので、「ヤマギシズム」や「研鑽」の根幹を外したまま、「ヤマギシズム」や「研鑽」をやっているつもりでいた、ということにもなる。

自分が本当だと思ったことを実践する。
このことが既に「ヤマギシズム」や「研鑽」から外れているとも云えるだろう。
自分の考えによる自覚のないキメツケ、信じ込み「盲信」が、ベースになっている。
研鑽会で満場一致になる場合は、自分の考えを盲信(盲信=自己盲信)するひとりひとりによって、一つの決定が下されていることが多いのではないだろうか。
自分で良いと思ったことやるのは独走で、みんなで良いと思ったことをやるのは集団暴走行為だと思う。

キメツケているという自覚はなくとも、自分の考えで良いと思うことに重きを置く盲信者が、いくら寄って話し合っても、集団盲信を膨らますだけ。

「ヤマギシズム」とか「研鑽」という言葉は随分使ってきたが、その根幹を全く知らないでいるのかもしれない。
自分の考えで、信じることも、疑うことも、批判することも、裁くことも、できないのが当然で、そういう根幹なしに、「真目的を目指す」とか「あれが本当」だと裁いていては、小集団化して、反感・対立・壁ができるのも当然だと思う。

自分の考えを信じてキメツケる、盲信体質に一刻も早く気づいて、
気づいた人から、研鑽体得の道をゼロから、歩みたい。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.01 Mon 08:30

研鑚知能開発 予科課程

昨夜、遅く・・・
研鑚していて、だいぶん、でてきたな。
本当、本当、と言っていても、本当の方へ、行けないのには、
まず、順序があって、本当は・・・・、という前に、本当は・・・、に行けるように、行けなくしているものを、自覚して、解消する、という順序。
それが、だいぶん、でてきたな。ついでに、そこ突破する方法・アイデアも・・・。
これは、なかなか、賜物と言いたいくらい。
先ずは、合宿して、それのみをやる場で、実験。

日常化するには、環境として、本当は・・・、指向の人の存在大きい。
社会気風によって、自覚・解消・本当へ、を促す。そういう真実研鑚会(幸福研鑚会)が必要。
社会に研鑚を実在させ得る人の養成を。

Category: < 精神革命 > | 2005.07.29 Fri 08:28

研鑚体得 予科課程

特講を受けたことがある人達が寄って、研鑚会になるための「研鑽体得」の課程
「本当はどうか」と口では言っていても、「本当」よりも目に見える「実績結果」の方が大好きな一般凡人のための研鑽機会
例えば・・・、
合格したら「良かったね」、不合格なら「残念だったね」の人達が寄っても、「本当はどうか」の研鑽会にはならないと思う。

「本当」が見えない人に限って、「本当なら結果に現われる筈だ」などと、「本当」より目に見える「実績結果」に関心があることの言い訳をする。
現象化する以前の「本当」を見抜けない明き盲(あきめくら)。若い「本当」の芽を次々とつぶしていく。

良いとされている結果を出せば評価され、その逆なら見下される、
そんな社会通念のまま、研鑚会をやろうとしても、「本当はどうか」っていう研鑚にならないと思う。
本当に「本当はどうか」と調べる「研鑚」を体得しようとする人の課程です。

Category: < 精神革命 > | 2005.05.08 Sun 07:56

つづき

本質、本質、と強調すると、物否定の唯心主義のように思われるかもしれないけど、そうじゃなくて、
肉体の健康や、物を豊富にすることを否定するわけじゃない。否定しない、ということは、肯定するわけじゃない。
肉体が元気で健康、物が豊富にある、・・・で、「そりゃぁエエなぁ」と云えないもの。
元気で健康にこしたことない、豊富にあるにこしたことない、と思う人多いけど、本当にそうか、どうか・・・。
これが、現象面で判定する価値観。
人間の健康、物の豊かさは、現象ではない。「肉体の元気」や「物の量」では、健康か豊満かどうか分からない。
そこで、いちいち、本当の健康、とか、本当の豊かさ、などと言わなければならなくなる。
元気にしてても、明るくしてても、積極的でも、活発でも、軽くても、役に立ってても、物や金を放してても、皆と一緒に研鑽してても、・・・・・
何をしてても、本当の何々か、どうか・・・。
つまり、本当か、どうか、・・・ これは現象のことではない、本質のこと。
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