Category: <山岸会養鶏法> > 一特別解説 | 2003.12.30 Tue 15:00
4 頭の悪い人のために
もともと頭が悪いとか、考え方が間違っているとか、病弱な人又は悪行為等をする人に、そのひと一人に責を負わしてはいけません。
左様な人が生れた原因、左様に育った環境を、具さに追求しますなれば、凡て全部、親の親の親の繋がる人類全体に因を発し、行為を起さした周囲の社会全体に欠陥があったのですから、かような人を出さないよう、社会全人類が他人事とせずに努力を傾けることです。
山岸養鶏では(技術20+経営30)×精神50と、精神面を強調するのは、鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋りを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです。
何も修身や修養や道徳を云っているものでなく、寡欲高潔な所謂人格者でないと鶏が育たぬとか、卵を産まないと云うのではなく、又社会奉仕をせよと強いるものでもなく、この場合の精神とは、大いに儲けて、永久に養鶏を栄えさすために、必要で欠く事の出来ない、一番先に知らねばならぬ根本精神の事で、他の養鶏法は兎も角、山岸養鶏はこの精神が欠けては、絶対に成功出来ない仕組みになってあります。
自分さえよければ、又はわが家・わが村・わが国をと、国家個々人主義に出発した対立精神は、絶対に永続性がない原理を知り、人間生きて行くには一人立ちは出来ない、自分一人離れたものでなく、世界中の人と相繋がる自分であることを意識し、相共に栄える社会愛社会の一員であることを自覚して、養鶏する精神を云うのです。
人の厄介にならなくとも、自分は自分でやって行くから、かまって呉れるな人の事は見殺しで見過ごす個々人主義では、必ず行詰まる日が来ます。全世界の人の知識を皆と共に集めて、皆と共に繁栄しようと云う精神を云っているのです。
解り易く云うと、永久に儲け続けて行くには、自分一人の知恵や考えでは限度があり、他から取り集めるにも、自分一人で絶えず探し求めたところで、労して功少なく、よし専売特許的なものを得たとしても、一時的には栄えても、又その上その上が現れて永久に優位は保ち得ず、狭い自分の経営範囲でそれを利用するよりも、世界全体の養鶏に活用した方が、その効果が幾層倍かに現われ、自分の持った知恵や技術が最大限に生かされ、世界中の富が増進し、自分が及子孫が、世界中の人(相棒)の住む社会が豊かになります。
知恵も技術も世界中の人のものであり、世界中の人のために最大に役立たすことで、これが最も大欲で自分を大きく生かし、生きがいを楽しむことになり一番楽しい人生です。
多川柿 奈良の多川という柿の先生が、柿の優秀品種の接穂を冷蔵庫で沢山貯蔵して置いて、老躯・病身を厭わず、その接穂を持って、各地を自費で訪ね廻り、実生樹や劣悪柿樹の接換をさせて貰っていました。無論タダです。
私の方へも来ました。その時私は云いました。「あなたは欲の深い人ですね自分の柿畑で足りないで、そんなことして日本中多川柿を接いで廻り、多川が死んでも柿に多川を生き続けようとは執念深い男だね」と「その通りです。よう接がして呉れました。有難う。」とお礼を云って、何か置土産までして帰りました。
こちらは接がして上げて、御礼迄貰って、憎くまれ口たたいて、一言の御礼も云わないのです。
私にして見れば、多川の素晴らしい技術と、その精神を永久に生かさして、彼氏に喜びを与えたのであるから、御礼を云って貰うことは当然で、常識外れで、時機外れの柿の接穂から、昨今いきいきと青い芽をふき出したから、やがて来る年には熟れる柿の実に、広く、永く、多くの人々と共に、多川の味を思い浮べるでありましょう。
山岸の本領 大したものでもなく、用い方によっては他を傷める山岸養鶏にしても、何程かでも役立つなれば、そこに山岸が生かされることを思えば、御礼の一つも云い度くなります。
ただ念う事は、自分(近い周囲も)のみの儲けに利用されないようにと思うのです。
しかも山岸養鶏等と名付けられて居ますが、全部皆他から受けたもののみのデッチ上げで、私のものは一つもありません。私の生れる以前からあった山岸という符牒も、いつどんな人が付けたものか、身体も心も物の考え方や能力も社会関連により両親を経て受け継いだものや、周囲から与えられたものに過ぎなく、幾多先輩の業績を継ぎ合せ、鶏や自然に教えられ、受けた頭脳で考察、発案し、組合せたもので、こうして全部社会・周囲から受けたものを、凡て社会に提供利用されることは、当然の帰結だとしています。
これを後の人に伝えず、自分で停滞独占して、狭い自分のみの経営で、五万十万に用いて、何百万円を掻き集めて、貯金して通貨異変を心配したり、威張る子女に養育して不幸に一生を暮れしめるよりも、薄く共広く、多数の鶏に活用される方が大きいと思うのです。微力でも本当に良い社会に使われ度いのです。
怒る人は御免 それからヤマギシズム社会では、凡ての事は心底からの理解に俟つ事としているから、怒ることがなく、山岸会正会員資格者は絶対怒らない事になってありますし、相寄って来る多数の人は怒が急激に少くなっていますが、技術のみの取込みに急な人達に限って、一番肝腎な根本問題を嫌って、都合のよい時だけ同調して置いて、何かの事情で腹を立て、親愛社会への反逆妨害をします。
私は全部を惜みなく出し度いのですが、今の世相では、豹変し、怒る人が多過ぎ、一を取れば二を求め、求める方は技術に偏よって際限なく、その先々を考えると、その人をも不幸にする事がよく判りますから、先ず一端を出して、もっと大切な事に気付かれる日を待っています。
怒る前に話し合えば怒が生じないものを、そして状勢を見て適当な時機に適当な事柄を、会を通じて発表するつもりです。
技術を小出しにする理由 山岸養鶏のホンの一端である、一番簡単な育雛を出したのみで、こんなに急速に普及しましたが、私及山岸会が幾多技術を持ち乍ら、これを一般に公開せず秘匿し、又は一部の人にのみ伝えていることは、一見矛盾しているように見えましょうが、今の社会には、以上の原理が解らず、自分の持っているもの(知恵も技術も)は出さず、他から得たものも自分のみ(自分の身に近い周囲)の儲けに利用する人が多く、他より多く積んでも積んでも物足らず、世界の蔵に貯えて置いた方が安全なのに、自分の蔵に貯えねば安心出来ず、泥棒や減る心配の種を積み重ねることは、当人も哀れですし、社会も取り合い、睨み合いの間違いから一歩も前進せず、却って、親愛社会にしようとする私共の活動の障碍になりますから、人を見て伝えているのです。
われ、ひとと共にと云っている人でも、その行いを仔細に検討して見ると、今日(1955)では自分の周囲や自分の国程度の人が大部分で、この考え方で、この考えをどこまで拡大しても、救国とか民族とか云う対立国家意識や、個々人主義から出たものは、根本的出発点から間違っているから、絶対に良い社会は生れず、かような人に何程秘術を与えても、その上、その上を欲求し、取り込む事ばかりに血眼となり、ますます真理を見る目が眩みます。
先づ自分を、先づ自国をかためてからの出発でなくて、先づ全世界人類全体のための立場から見ての、今日、唯今の行いにならねば、全部狂った結果になります。
世界全体から見て、低い所から低い国から引上げて行く事で、日本人であるから日本からでなく、世界の中に日本のような物心共に乏しい国があることは世界の不幸であるから物心共に引上げねばならないのでしょうに、物の面のみ先に引上げられては、心の乏しさは却って引上げが難くなり、物を豊かにする方は割合易いが、心の貧困を豊かにすることは容易であって容易でないから、物心併行して引上げるために、心の引上げに努力が必要で、それを強調し、その社会愛社会精神を基盤にした養鶏でなくては、如何に卵肉が増産されても、我一人の醜悪社会の延長に過ぎないでしょう。
これをこの農業養鶏に当て嵌めて見ると 養鶏界も需給の関係や諸種の条件が毎日動き、或る年は利益があるが、年によっては大体不引合の事もあり、不引合と云っても何割かは残り、非能率的なものや、経営条件の劣るものは淘汰されます。農家は、養鶏のみが専門でないから、経営規模も技術も養鶏知識も乏しく、他の農作業に力を割き、技術の研究に或は購入販売に没頭する訳には行かず、前進々々と事態に機敏な専業家について行けず、養鶏界不況にたちまち打撃を蒙り、損して止めるのがオチとなります。
そこで、その乏しい農家が落伍せないで繁栄する途は、相共に協力し、励まし合い、落伍する人を出さない組織が必要です。
ところがこの組織を、個々人主義から出発した権利・義務の法制で運営するなれば、無味乾燥の事務的なものになり易く、法の監視を必要とし、監視の範囲のみの義務行為になり勝で、権利・義務の突張り合いで他よりも多く貯えようとする、取り合いの人の寄り集りになり、場合によると、共栄のために寄り乍ら、大穴が空いたり、紛争の場になり、悪感情を残す実例が枚挙に暇ありません。
これ等は皆自己中心(自己所属団体中心)観から来る欠陥であって、こうした誤りを正し、自他を繁栄さすものは、実に全人一体観に立つヤマギシズム社会機構、及その精神に徹する人達の結合によらねばなりません。
農業養鶏が苦境に耐え栄えて行くには 団体経営と研究団体が必要であり、親愛の情に繋がる団体でなければ成果は上らなく、個々に目先きの近欲を出し合い、謗り合い、我欲を出して、喧嘩する団体では栄える道理がありません。
親和の場が他を攻撃し斗争の場になっては、個々の養鶏も成り立たなくなるから、仲良くするための精神、即ち会旨、われひとゝ共にの精神を、山岸養鶏では精神50と云って、必須条件にしているのです。
仲よくするから繁栄し、繁栄するために仲良くやれる機構と精神を必要とするのです。
一寸した間違いや誤解や不利に、直に眼に角立てたり、失策を怒り、罵しり疑ひ、邪推、断定するようでは自滅への直進であり、自他繁栄への逆車を押すことになりましょう。
喧嘩別れにならぬよう、失敗させぬよう、真底から仲良くなるための精神を云うのです。
それには対立世界ではなくて人類一体観から発する親愛協力社会精神でなければ絶対に成立せないのです。
この精神と、無理をせない社会機構を具備するなれば、法律等は余り必要がなくなり、斗争のない明るい、住みよい安定した、快適社会が実現します。