< 研鑽学校にて >
公人公器として公意行生活
1 小人より大人へ  家人より社会人へ
  国民より世界人へ 狭人より広人へ
  私人私器より公人公器へ
2 オオヤケの意志に則うワタシの生き方
3 報酬的、結果的喜びでなく
  過程を楽しみ、活かされる歓びに生きる
4 周囲 環境に流されないで
  自分の生き方として生きる

 「公人」とは何ですか、「公器」とは何ですか、「公人公器」とはどういうことか、これも言葉としてはよく知っているとだろうが、その中身を把握しているかどうか、考え出し合ってみると、曖昧なところもはっきりしてくる。「公人公器」というのが、どういう理念から来ているか、調べてみることも効果的。ただヤマギシでは公人公器としてやっている、ということでなく、今まで研鑽した理念から行くと公人公器が人間の生き方として当たり前だと、なってくる。決して公人公器という枠にはまるようなことではない。人間の生き方を探ってきて辿りついた当然の帰結とも云えよう。

1 公人に革命された人だからこそ、公器にできる、公器に成る。私人のままで公器のように使おう振舞おうとするところに無理が生じる、努力が要る。私人公器などあり得ない。誰が用いてもよい、如何様に用いられてもよい、という理念からも心の置き処がはっきりしてくる。公人なら自分を公器として使う。

2 「オオヤケの意志」とは何か、どういうことか、と徹底究明する気で臨みたい。実顕地でやっている人は日頃から、聞いてやるとか、研鑽してやるとか、公意でやるとか、そういうものだとしてやっていることが多いのではないか。「オオヤケの意志」とはどういうものか、みんなで考え出し合って、簡単に結論を出さずに、正解だとしないで、本当にそうかどうか、「研鑽したらオオヤケかどうか」、「ワタシの生き方」として則うべく「オオヤケの意志」とは何か。「オオヤケの意志」を出す方法や条件要素よりも、「オオヤケの意志」というからには、どういう性質のものか、個人の意志との異いもはっきりして来る。「オオヤケの意志」=「公意」とか「研鑽結果」だと安易に結論づけると、「オオヤケの意志」というのが肚に入らなくて、「公意」に則う、「研鑽結果」に則う、ことだとなって、結論だけ入ってしまって、「やはりそうするものだ」と思い込んで生活する生き方にしかならない。いくらはっきりした様でも、生き方の根底から確立するということにならない。「オオヤケの意志」の定義そのものも理念のどこから来ているか、しっかり押さえておきたい、人間本来の生き方として「オオヤケの意志に則う」というのが浮び上がって来るように。

3 喜びや楽しみの質について研鑽する、楽しいとそれでよい、喜びがあるとそれでよい、と思っている人が多いのではないか。何に楽しみや喜びを感じているか具さに調べる必要がある。結果的とか報酬的とかを直接テーマにしても自覚していないものは気付きにくい。具体例でいく、このテーマは「幸福感人種」や「有る間の豊かさ」の研鑽に共通するが、ダメ押しをする意味でも具体例ではっきり自分を知っておく。
 やれたり進んだりすることに喜びを見出していないか(結果的喜びではないか)、自分が自分の思った通りに活かされているから楽しいのか、自分の気に入ったことをやっているから楽しいのか、そう思えないことをやる場合には楽しさはどうなるか(報酬的楽しさではないか)、自分が加わるべき事を他の人だけで決めて進んだ時、自分は聞いてないとか、相談を持ちかけられなかったと、快くないものが出てこないだろうか、もし出てくるならそれは何だろう。「あなたに是非やって下さい」と同じように「あなたは是非やらないで下さい」も聞けるだろうか。
 これらの具体例の中でも、特に徹底したいのは自分の意見が入っていないことを喜んでやれるかどうかという点。自分の意見が採用されたり、研鑽に加わっていると、やる気満々になるが、そうでない場合、やる気が薄れるとしたら、それは何なのか。
 報酬的・結果的な喜びでやっている人は殆どそれに気付いていないのであるから、根底から自分を「誰がどのように用いてもよい」という公人公器としての指標をはっきりしておく。そして公人公器の喜び楽しみを探る、やることそのものが楽しい状態。

4 以上の研鑽で肚に入ってところから自分の生き方が具体的にはっきりしてくる。周囲環境に流されない、というテーマもいくら「流されないぞ」と言ってみてもそう成れるものではない、具体的に流される元を押さえておく、絶っておく。他の人の顔色や反応一つで心境的に揺れる人がいる、そういう自分かどうか調べる、他からは分からないことも自分自身にはよく分かっていることも多い。自分が他に求めるもの依存するものが無かったら周囲に流されることはない、ということをはっきり知って、まだまだ揺れるようだったら何がそうさせているのか、元を突き止めること、自分を最も低い位置に置くという生き方も見えてくる。そうでなければ相手により、環境により、事と次第によりグラつく。