< 小論 と 解説 >
無所有・一体生活について

 何かにつけて、目に見える物を頼りにする人間の観念習性は困ったもので、無所有一体という理念についても、現象に置き換えてとらえるから、それとは異なる現象は無所有一体ではないということになる。
 例えば、ある人の自動車を、使っていない時に、別の人が貸して欲しいと言ったが、その人は貸したくないと言った。
 こういう場合、その人は、その自動車を持っている、放していない、皆と一体でやろうとしていない、・・・・と見ることがある。
 本当にそうだろうか。無所有一体か、そうでないか、そんなことで判別できるのだろうか。
 財産の沢山ある人が、少ない人の所へあげようとしない、それは沢山ある財産を所有しているからだ、一体じゃないからだ、と、そんなこと言えるのだろうか。
 「物の偏在を無くす」「必要な所へ流れる」ということを押し付け、沢山ある人の物を減らさせようとするから、禁欲節倹生活のようなイメージが植え付けられる。
 無所有一体という理念を掲げてから半世紀近くになるが、このように現象でとらえている限り、特殊な観念的禁欲生活賛同者のみによる偏狭で窮屈な生活でしかないと思う。
 例えば、自然全人一体・誰のものでもない・誰が用いてもよい。そうだなぁと頭で思っても心の世界がそうなっているとは限らない。無所有一体が本当だと思い、私有財産を無くして、財布を一つにする生活調整機関の一員になっても、心の世界が無所有一体とは限らない。
 個々に生計を立てている現状は、無所有一体ではない、という堅い固い決めつけがあるのかもしれない。
 現象を見て「所有・占有している」「溶け合っていない」「理に反している」と決めつけないことだと思う。これができたら無所有一体で、できないのは無所有一体じゃない、などと決めつけないことだと思う。現象を見て決めつけるから、心の世界の無所有一体は益々遠ざかる。

 無所有一体生活は、飽く程に豊満な世界、誰もが共鳴・協力したくなるような、普遍性のある理にかなった暮らし。
 無所有とは持たない状態、一体とは溶け合っている状態、それは心の世界のこと。
 心の世界が無所有一体にならなければ、無所有一体生活は実現しないし、無所有一体の社会も訪れない。無所有一体とは何か。無所有一体社会とは、どんな社会か。

<貧困者のない社会>
『私は高いものを奪い取ったり、崩して引き均したり、伸びる者を抑制したりしないで、又納得もささずに暴力を行使して犠牲者を出したりし度くないのです。』
『私は低い者を、引き上げる手段を採り、持たない人が持つようにします。これなら持っている人に頼まなく共、奪い取らなく共、承諾も、犠牲も、反対も、抵抗もなくして解決し、一人残らず皆富み豊かになりましょう。持てる人を泣かさずに、貧乏人を喜ばします。』
<物は飽く程豊満な世界>
『欲するものが、欲しい時に、欲しいだけ、自由に、労せずして得られる仕組みを理想とし、生存に最も必要な空気や、水に近い程度にし度いものです。』
<陽的社会>
『現在の国境は夜の囲いであり、あまりにも厳めしく、やがては唯の地域名程度の昼の画線になり、今の経済機構も、政治及び社会組織も、人の心も皆、明るい昼の姿に変ります。政庁・官職にあるもの、手掛けている学問・芸術・職業も、法律・財産もそのままで、益々伸展合適する自由があり、自動的に少しも波乱なしに、理想社会に生長します。』
 以上、「解説ヤマギシズム社会の実態」より抜粋

 必要以上に欲しいと思うことや、あり余る程に多くあること、そのままの状態で、心の世界の無所有一体が実現できないものだろうか。
 家も職も財産も、そのままで、無所有一体生活が実現すれば、誰もが共鳴・協力すると思う。
 それには、心の世界が無所有一体になるような方法・社会環境が要ると思う。
 人の心が明るい昼の姿になるような、昼の世界があると思う。
 先ず、昼の世界を知って、昼の世界に住もう。