< 小論 と 解説 >
人間を見損なわないで

 人間らしく・・・、という表現には多くの人が賛同するとは思いますが、たくさんの法律や規則のある社会や集団の中で、常識・習慣・道徳などの共通観念で暮らしている現状を見ると、人間らしからぬ生き方をせざるを得ないような社会環境にあり、それを見直すことが先ず第一だと思います。

 今日の人間社会の仕組みや営みを見ると、人間を随分見損なっているような気がします。
 幼い頃から、教えられ躾けられて育ち、人の中に入れば規則・罰則や褒賞を習い、飴とムチで人をけん制しながら治める社会になっています。
 そのわずかなスキマをぬって、余暇や憩いの場を求めています。人間らしくない日常を送っているから、より一層、人間らしさを欲するのかもしれません。
 人間は、思い込んで信じやすく、感情的で腹を立てやすく、考えや利害が一致しないと争いやすく、規則や罰則を設けないと秩序を保てない・・・・、人間とは本当にそんな動物なのでしょうか?
 人間は本来、知的で心豊かなものではないでしょうか?
 人間には一人一人に知恵も心もあって、その用い方によっては、人間を狂わせ、人間を苦しめることもできるでしょうが、人間が好むことではないでしょうし、今の世の中にはそういうことがあるとしても望んで狂ったり苦しんだりしている人はいないでしょう。
 何が人間らしいか、を知っているのは人間だと思いますが、ともすると人間でありながら、人間らしさを見失ってることもありますから、心も体も休めて、じっくりと何が人間らしいかを考える暇が必要だと思います。
 例えば、自由に伸び伸びと得意な事に専念できて、周囲から束縛されたり押し付けられたりせずに、人とは仲良く和気あいあいと暮らせたら、心豊かな人間らしさが実現しているとも言えるでしょう。

 それから、人間らしさという点で一番重要だと思うのは知的ということです。人間は感情の動物とも言われますが、また知能の動物とも言えるわけで、知的であって情的であるということだと思います。
 しかし、知的・知性的ということに良いイメージや憧れはあっても案外、消極的な人が多いのかもしれません。知的という言葉から、インテリ、賢い人、優秀な頭脳の持ち主など連想するからでしょうか。しかし、知的ということが人間らしさの象徴と一つであるなら、「○○は知的な人ではない」では済まされないと思います。
 例えば、感情に振り回されているような人、或いは、みんながそうしているからとか、ここではそうなっているからと、自分の考えなしに従っている人、知識や体験や人から聞いて得たことを信じ込んで他の意見に耳をかさない人、自分のことばかり考えている人、などなど知的でないと感じる例はいろいろあると思います。
 気持ちにゆとりができれば知的に考え行動できるようになるのか、或いは、知的になれば心が穏やかになるのか、どちらにしても、豊かな心、豊かな情感というのは、豊かな知能の働きと共にあるものだと思います。

 人間に備わっている知性をもっと引き出し活用して、ひとりひとりが知的に考え行動する人間社会にしたいもです。規則や罰則がなければ人間は何をしでかすかわからない、というのではなく、規則や罰則や権利・義務をかざさなくとも、知的に考え自由に行動して営める、仲良い楽しい社会はいかがでしょう。
 そんなの無理だ。という人がいたら、私はそれこそ「人間を見損なっている」と言いたいのです。
 そのような人間社会にするには、どうしたらそうなるか、またその前に、そういう人間社会は本当に無理なのか可能なのかと、まさに知的に考えていく必要があるのです。
 腹を立てたり人を憎んだりしない知的な人、権利・義務・規則・罰則の要らない知的な社会を目指して共に研究していきましょう。