< 小論 と 解説 >
研鑽の実現 3

例えば、誰かが「生活に困らない程度の金は有る方がいいよねー。」と言うと、
「そりゃぁそうだよね。」と同意して、その方向で方法等を検討していく。
研鑚会という名称で、こういうことを随分やっていると思う。
異論を唱える人もなく、誰もが「そりゃぁそうだよね。」という場合、
そのことは、それ以降、調べられる機会なく「そうだ」とされていくのだろうか?

「本当にそうなのか」「なぜそう言えるのか」「本当はどうか」の研鑽がないままに、
ある方向で、それが成るように考えていく。みんなで考えるから研鑚しているつもりになる。

生活面・育児や教育、産業活動・事業経営についても、「こうなったらいいなぁ」と皆で一致すると、その方向で検討していく。
「こうなったら本当にいいか、どうか」の研鑽があるか、ないか。

例えば事業経営で「赤字では成り立たない」として、赤字を解消して経営が成り立つ方法を考えようとする。
「赤字」とは何か。「成り立たない」とはどういうことか。の研鑽が要ると思う。
「事実、赤字なんだから」とか「事実、成り立たないんだから」と言う人がいるが、そういう人には「事実」という言葉を使って欲しくない気もする。
「何が事実か」「事実は何か」それを調べる機会が是非とも欲しいものである。

更に、暮らしの面にまで、資本主義・市場経済の観念を持ち込んでいるからか、
「生活が赤字」とか「生活が黒字」という見方が出てくる。
私が世間知らずなのかもしれないが、どうにも、この赤字・黒字というのが分からない。
金銭面の収支のことだと思うが、定めた範囲内で収入の方が多いか、支出の方が多いか、を何故そんなに重視するのか。
「赤字だと、なんとかしなければ・・・・。」「黒字だと、先ずは一安心・・・・?。」
社会全体、みんなが、こんな価値観で右往左往して、彷徨っているのだろうか?

旧来の通念・価値観のままでの良かれと思っての行為では、新しいものは何も生まれないという気がする。
「何故それがいいと思っているのかな?」「本当にそれがいいことなのかな?」
日常、こうなったらいい、こうならなきゃぁ、と思っていることに研鑚のメスを入れると、続々と新たな発見があると思う。
「研鑚のメス」をもたないと、研鑚が実現しない。「研鑚のメス」とは・・・・。
つづく。