< 小論 と 解説 >
研鑽の実現 2
研鑽の実現 研鑽社会の実現

 ○Fさんが、「鶏の丸焼きを作って会社の前で販売しよう。」という話を持ちかけたが、あまり関心を示す人がいなかったとか・・・・。

 ○S社では、2年近く前から制服を採用したらどうかとの提案があり、それの検討が、ずっと続いているとか・・・・。

 ○Fさんのところへ、「Mスーパーの惣菜部門を請け負わないか。」との話があり、数人の女の人に声をかけたところ、それぞれに反応をしたとか・・・・。

 ○お店で、鈴鹿支部の会員に優待券を発行しようということになって、実施しているとか・・・・。

 これらのような事例は、日常の茶飯事かもしれないが、それぞれに研鑽が実現しているか、どうか、と検べてみたい。
 誰かから何がしかの提案があって、それに反応する場合、自分なりに受け取って、自分の価値観で、それに反応しているのではないか、と思うことが随分ある。

 「そんなのよくないと思う」とか「そんなのやりたくない」とか、或いは、「そりゃあいいなあ、よしよろう」などと、賛同する場合でも、自分なりの受け取り方、自分の価値観で、反応しているにすぎないのではないか。

 話し合いとか、研鑽会と称していても、人の意見や話に対して、思い思いに反応して、思ったことを言う。そういう形態をさして、話し合っているとか、研鑽会をしているという風にしていないだろうか。
 上記の4つの事例でも、それぞれに提案する人がいて、その提案を聞いて、思い思いに反応する。そうすることが「研鑽だ」と思っている人が多いのかもしれない。
 湧いてきた自分の思いや感情を出すことに重点をおいていることが多いような気がする。

 その提案の真意を確かめるというより、提案の言葉や事柄を聞いて、それについて自分の価値観を介して出てくる反応をする。そして、真意を確かめることを経ないで、事柄の検討に入っていく。一つの同じ事柄を検討しているように見えるが、一人一人の受け取り方は、バラバラのまま・・・・。

 思ったことを思うがままに言うとか、何でも出せるということに、随分重点を置いている。
 相手が言うことをそのまま聞く。何を言おうとしているのか真意を汲み取ろうとすることに、重点を置いているだろうか。
 相手が言った言葉を自分なりに受け取って、自分なりに出てきた意見を言う、真意を聞こうとしないで、自分の思いを言い合っているのは話し合いではないと思う。

 「真意は何だろうか」「その事の本質はどこにあるのだろうか」という心の状態にならない限り、研鑽生活・研鑽社会は実現しないと思う。いくら話し合いのような形式で物事を進めていても。

 研鑽が難しいのではなく、研鑽を邪魔しているものを取り除くのが容易でない。それは「自分の考え」というやつだ。
「自分の考え」を持ったまま聞いて「自分の考え」で反応する。研鑽から遠ざかる。

 「聞く態度」「よく聞く」「素直に聞く」「その通り聞く」などと言ってきたが・・・。
 人と人の暮らしの中で「聴く」ということが実現しないと、とても「研鑚」は実現しない。

 「聞く」=「やる」になっているから、「聞いたら、やらなければならない」と思っているのではないだろうか。
 「やれっ」「頼んだよ」「こうなりました」と言われたら、「ハイ」と聴く。「ハイ」と聴かずに自分の考えが出てくるのは、聴いていない。
 先ず「聴く」。それから「研鑽」。それから「実行」。「研鑽」のある人は、どんなことでも「ハイ」と聴ける。研鑽がないから「ハイ」と聴けない。聴いたら「実行する」もんだと思っているからだろうか。「聴ける」ことと「聴けない」ことが出てくる。自分の考えで裁いて取捨選択する。

 「研鑽」があると、何でも「ハイ」と聴ける。やる気で「ハイ」と聴ける。
 或いは、先ず何でも「ハイ」で聴いてみる。自分の考えで裁かないで、何でもやる気で聴くと、「研鑽」が必要となる当然の理。

 研鑽生活実現の具現方式は、こんなにも簡単な足下にあるのかもしれない。