< 小論 と 解説 >
知的と科学的と・・・

知的とか科学的ということについて話し合った
知的、つまり頭脳が柔軟に活発に働く、いわゆる「考える」ことを阻害するものとして「頑固さ」がテーマになった。
無自覚・無意識の頑固さ。「子供の頃から頑固の訓練」という表現を聞いたことがあるが、「これはこうなんだ」と体に染み着くまで自分で自分に教え言い聞かす訓練。
もの腰の柔らかい頑固、もの分りのよい頑固、八方美人頑固、善意観頑固
見下したがりの優越感頑固、自分を卑下する劣等感頑固、距離をおく批評家型頑固、・・・・
いろいろ、あげたらキリがないと思うが、「体験頑固」の弊害というのも大きいなと今、思っています。
私は、見た、聞いた、経験した。だから、見ていない人、聞いていない人、経験していない人には分からないという頑固さ。つまり、自分は分かっているという頑固さ。
自分は知っている、分かっている、見えていると思うこと自体、思い違いというか、頭が固まっている状態で、自分は分かっていると思っているという自覚がない。
分かっていない人よりも、分かっている人の方が良いという常識(頑固)観念が普及しているから、分かっているということを恥ずかしげもなく、むしろ誇らしげに披露する。
「子供の頃から頑固の訓練」というのも、そうしようと意識している訳ではないだろうが、結果的に今の社会常識の中で頑固を植え付けることが良いこととして行われている。
ここではこうするのですよ、こうしたらうまくやっていけますよ、こんなことをしたらダメですよ、いろいろ、教わって体に染み着かせていく。

例えば、犬がいつも通っている通路をふさがれると、なんとかそこを通ろうと何度も体当たりすることがある。他にいくつも通路があるのに、そういうことは考えられないのだろうか。この犬はバカだなと思うことがある。
人間に限らず多くの動物は、自らの経験をもとに脳を働かせ行動しているのでしょう。経験という過去のものを、今のことに当てはめてうまく行くと、またその経験が蓄積される。経験を積めば積むほど、過去の情報は蓄積される。これは、おそらく人間以外の動物にもいえることでしょう。しかし、そこからが人間の本分とでも言えましょうか。
・今と過去とは違うものだということ。
・だから、過去の情報が今に当てはまるとは限らないということ。
他の動物のことは分かりませんが、このようなことを考える能力が人間にはあるでしょう。

過去の情報を集積し駆使する能力は、他の動物には真似られない人間の知能の高さを示すもので、人間は自分の経験に限らず、自ら経験しないことまでも知る能力があります。行ったことのない地や会ったことのない人を知ることができます。さらに現象化しない心の世界や物の道理を知ることができます。
人間の欲求からくる「知る」という能力は際限なく、例えば人体の成り立ちを知って医療技術が進歩したり、気象や天候の条件を知って高度な予測ができる等、「知る」ことによって、そこから発展して、今までにないものを産み出すことができます。

このように高い能力・豊富な情報をもち、そして、知に対して際限ない欲求があるであろう人間が「そのことはもう知っている、分かっている」となると、どうなるか。そこから大きく狂いはじめるように思います。
知っている、分かっている、そのことはこうなんだ、と無自覚のうちに自分の中で決めている。それが、先に述べた頑固と大きく関係していると思のです。

頑固というものは、自覚しづらいものではないかということを念頭において、解明していきたいと思う。人間が知的に科学的に生きるということに深い関係がありそうです。
更に、頑固さがなければ知的・科学的と言えるか、という課題があります。
決めつけがない、執着がないこと、イコール科学的と言えるかどうか。
無固定前進という言葉があるが、無固定イコール前進か、どうか。
また、探究し合っていきましょう。