< ヤマギシズム 理念 解説 >
要約
 

以上、理念の中から四つの項目を掲げて解説を試みたが、これらを取り上げただけでは理念とは云えない。また、四つの理念があるということでもない。理念という一つのものを便宜上、四つの側面から(角度から)表現したものという程度に受け取って頂きたい。だから、別の意味では一項目だけでも理念である。
 分類した理念のまとめとして補足すると、
 我執が無くなれば誰とも仲良く溶け合い、自他の隔てなく一体の人同士になり、一体だから社会全体が全人類が一体の家族であり、自分のものだ、誰々のものだ、と持って囲う必要もなく、所有するという観念も不要で、所有という制度も社会からなくなり、物を豊かに活かし合うこと勿論だが、一体の家族ひとりひとり、知識・経験・持ち味など、お互いに生かし合い、古今の知恵も技術も生かし、誰の意見や考えをも尊重し、キメつけないで執われないで信じないで疑わないで、みんなで溶け合って仲良く話し合い研鑽しながら、絶えず進歩発展しながら暮していく。無固定前進の人間像であり社会像である。

○ヤマギシズム生活

 ヤマギシズムは人間がより良く幸福に生きるための「考え方」である。
 ヤマギシズムに基づいた人間生活・人間社会を、ヤマギシズム生活、ヤマギシズム社会と呼んでいる。
 ここでは、ヤマギシズム生活とは何か、どういう生活か、ということを前章の理念に準じて分類しながら解説を加える。

1.一体生活
 理念では「一体=無我執」であり、ここでいう「一体生活」とは「無我執一体生活」とも云える。
 一体生活の本旨は生活の方法や仕組みではなく、生活する人自身が一体かどうか、つまり一体観に立っているかどうかである。これを分かりやすく表現すると「仲良し」ということだが、この「仲良し」は中途半端なものでなく、絶対の仲良しというか、永遠の仲良しと云おうか、いつ如何なる場合も誰とも決して仲が悪くならない、本当の仲良しである。意見が食い違ったり、誰かがとんでもない間違いをして、おおきな被害や損失を招くようなことがあった場合でも、争ったり責めたりすることのない、決して崩れない離れない「仲良し」である。
 そこには、誰とでも溶け合い心通わせ合おうとする自他一体の精神が必要である。
 一体生活は一律の生活ではない。一体生活とか仲良しという言葉の響きから、何かみんなが同じような生活様式を強いられるような印象を受けるかもしれないが、それは逆の考えで、一体だからこそ、ひとりひとりの違いがより鮮明に発揮されるのである。
 ヤマギシズム社会を示す一つの表現として、「完全専門分業社会」というのがある。これは、ノルマや義務・責任制、分配や割当ての要る個別分業社会ではなく、一体の完全分業社会である。言い換えると「一体の仲良しだから出来る分業」「一体の仲良しが深まる分業」である。前章で体内の各臓器の例を述べたが、一体の完全分業とはそういうもので、独立したものは何一つなく、互いに交替できるものでもなく、何れも一体の一部として欠けがえのない存在であり、互いに協力し合い補い合って一体の正常な営みの為に機能している。
 仲むつまじい家庭を想い浮かべて貰ったら一体の家族という意味で分かり易いだろう。一体生活とは直接の血縁もなく生まれや育ちも違う人たちで、仲むつまじい家庭のような一体の社会が実現するということである。家庭ならば、お父さんあり、お母さんあり、子どもやおじいさんおばあさんも居る、みなそれぞれに立場も役割も違うし、それでいて一人欠いても家族とは云えないだろう。そして、権利だとか義務だとか云わなくとも、その中での日々の営みは「この事は家族みんなで相談しよう」「これはお父さんに決めてもらおう」「家のことはお母さんに委せてやってもらおう」「この事についてはおじいさんおばあさんの意見も聴いてみよう」などなど、当然のことながら規則や統制や分配や監視など不要で、家庭という小社会は円滑に営まれていく。
 或いは、スポーツのチームプレーの場合はどうだろう。出場している選手、控えの選手、監督やコーチなどいるが、試合が始まると、ひとりひとりが試合の流れを見ながらチームのことを考えて一体の一員として行動するしかないだろう。
 家庭生活やチームプレーの例で分かると思うが、そこには独断独走行為がない。それは、家庭やチームの為だからしかたなくそうしなければならないという受け身や建て前的なものではない。独断独走を禁じるという規制や統制でもない。家族やチームの一員なら誰に云われなくとも、常に家族のことを考え、チームのことを考えて行動するのは自然な人の姿であり、そこには独断独走がない。つまり自己のみを優先したり、自己の所信を強行したり、対立や分裂など利己意志からの行動がないという意味である。
 一体生活には、社会の一員であるとの自覚、一体の一部であるとの自覚、つまり「一体観」が必須条件である。一体の生活体「一体社会」では、規則や監視は不要で、ひとりひとりの一体観からの行動に委ねられている。統一統制もなければ独断独走もない社会である。
 お互いを尊重し合い、個性を伸ばし特性を発揮して、各々の立場に於て最大限に自己を生かし、みんなと共に繁栄する、歓びと活力に満ちた人間生活が、無我執一体生活である。

2.無所有生活
 ヤマギシズム社会の一端を分かり易く表現して、「金の要らない楽しい村」と呼んでいる。「金が要らない」ということは、何かを手に入れるのにお金が要らない、と受け取る人が多いだろうが、それだけにとどまらず、そこに暮す全ての人の全生活にお金が一切要らないのであり、その社会そのものがお金を必要としないのである。そういう人間生活、人間社会を考えてみて頂きたい。
 お金が無い、お金を無くす、のではなく、お金の必要性が生じないのである。お金に替わるチケット等も不要だし、お金の起源ともいえる物々交換もないのである。
 金の要らない社会、金の要らない生活とは、その実は「経済」ではなく「人心」である。
 金の要らない経済機構のことではなく、金の要らない人たちの社会であり、生活である。
 金の要らない社会、金の要らない生活を、外側の金の要る社会から表現すると、財布一つの社会、財布一つの生活と云ってもよいだろう。これも、形の上でお金を一か所に集めておくということではなく、財布一つでやれる人たちの社会であり生活である。
 金の要らない間柄、財布一つの間柄の人たち、と云えば分かり易いだろうか。いくら働いても、いくら稼いでも、いくら豊富でも、いくら貧しくても、自分への見返りとか自分の分け前とか、そういう「自分のもの」を必要としない(所有のない)間柄、財布でも何でも「一つ」でやれる人である。
 無所有という概念を理論的に理解できても、金の要らない人、財布一つでやれる人にならない限り、ここでいう無所有生活はできないということがお分かり頂けるのではないだろうか。
 こう云うと、無欲恬淡な聖人君子ような人を想い浮かべるかもしれないが、そんなものではなく、実に簡単なことなのである。度々家族の例をあげるが、一件の家庭ならば金の要らない間柄も財布一つの間柄もごく自然な姿だろう。逆に昨今は変な個人主義がはびこって、家族の仲でさえ金の要る財布一つでやれない間柄になっている例もあるらしい。
 極々身近などこにでもある金の要らない間柄・財布一つの間柄に気付いて頂けるだろうか。そして、金の要らない財布一つでやれる間柄と、そうでない間柄と、どちらが良いかと素直に問えば、これが地域社会に、そして国中、世界中に拡がるのは不思議なことではないだろう。やがて、世界中の人が金の要らない間柄になるべくしてスタートしたのが、無所有生活である。

3.研鑽生活
 ヤマギシズム生活を希望し、暮していても、ヤマギシズム生活をしているとは限らないし、ヤマギシズム生活とは異なったものをヤマギシズム生活と思ってやっていることもあるかもしれない。
 自分自身のキメつけや固定観念、つまり「我執」には気が付き難いもので、キメつけないよう執われない心していくが、その上で自分の我執を見付けて貰って取り除いていこうとすることが、ヤマギシズム生活には重要であり、ここに日々の研鑽会が不可欠になってくる。
 一体生活・無所有生活について先に述べたが、「一体観に立って考え行動する生活」、そして「誰の所有でもない凡ゆるものを活かし合っていく生活」、この二点を取り上げただけでも、日常生活のすべてに研鑽が必要であることが分かるだろう。更に重要なことは、この研鑽生活というものが旧来より人間社会に必要とされてきた権力・命令・統率・監視などを以てしては実現し得ないということである。例えば「みんなのことを考えて行動しなさい、独断独走してはいけません」とか「持ってはいけません、全部放しなさい」と、外から強いても決してやれるものではない。当人自身の「みんなの考えでやっていこう」「すべてを放して一つでやっていこう」という自発的意志からの行動でない限り、ヤマギシズム生活は成立しない。
 これまでの法治社会の生活は、規則・法律・監視・罰則の要る他律生活である。
 ヤマギシズム生活は、自分を含めたみんなの為にそうしたくてする自発的自律生活である。
 自分の思いや考えを優先させないで、常に自己を省みて、他の人の意見や考えに積極的に耳を傾け、研鑽して実践する、その連続である。それぞれ自己研鑽・対話研鑽・研鑽会と形の上での違いはあるが、研鑽しながらその時点その時点での結論なり一致点を見出して行動する、またその結果も良かったとか悪かったとキメつけないで研鑽し、次ぎに活かしていくのが研鑽生活である。
 研鑽生活とは話し合いとか会合などの形のことを指すものではない、いくらそういう形式をとった暮らしをしていても、その人自身が研鑽のある生活をしているかどうかである。


 ヤマギシズム生活について、一体生活・無所有生活・研鑽生活と分けて解説してきたが、その最大の要素は、この「研鑽」にある。
 万人、各々が個々により良く幸福に生きられるよう、たゆまぬ研鑽によって組織され運営する社会が、ヤマギシズム社会である。
 ヤマギシズム生活とは、個々の努力や心がけに頼るのでなく、ヤマギシズム生活できる人になっていくような、理論・方法・実行とはどんなものだろうかと研鑽して(科学的に分析究明して)、社会機構・社会生活の全般に仕組み織り込んでいくのである。例えば、独断独走にならないような仕組み、自己を優先しては成り立たない仕掛け、仲良くしないとうまくいかない機構、みんなと共にやりたくなる暮し、放すことで豊かになり持たなくてもよい生活、研鑽によって自己を省みて成長していこうとする社会気風、等々、社会そのものが研鑽によって生れ、研鑽によって運営され、研鑽によって益々進歩前進していく。
 まだまだ無我執・無所有・一体になりきれていない未熟なお互いでありながら、より無我執・無所有・一体になり合っていこうと進歩向上し続ける研鑽社会であり、研鑽生活である。