< ヤマギシズム 理念 解説 >
無所有

1.所有とは
 人間には元来、所有というものがない。所有という概念は人間がつくりだしたものである。所有の起源は、物を蓄えるとか確保するというところから来ているかもしれないが、「蓄える 確保する」ことと「所有」とは別のものである。
 所有を前提にした今の社会通念から考えると、所有が無くなったら物は大事にしなくなるし、欲しいものを手当たり次第に取ってしまって、社会は混乱し成り立たない、と危惧する人が多いだろう。所有というものが明確にあるから、所有しているものは社会的に守られており、安心して生活できるし、所有を増やすことによって豊かになる、としている。
 所有とは、そのものの所在や持ち主を現わす概念のように思われているが、それだけではなく同時に他の使用を制限または禁止するものである。何ものかが所有することによって、当事者以外はそのものを自由に使えなくなる。だから所有は、また次の所有を呼ぶ。
 自由に使えるようにするには、所有を拡大するしかない。
 貧富の差は所有の差ということになる。

2.私有と共有
 例えば、ある国では豊かで貧しい人が一人も居なくても、他に貧しい国があるということは、国と国との所有の差であり、人と人の間で貧富の差があるのと同様である。
 共有は全体的所有のように聞こえるが、共有は個人の所有を守るための手段である。
 共有には分配 割当て 配当 分け前 など必要であり、これはみな私有のためのものである。
 「みんなのもの」という云い方があるが、これも「みんな」以外の使用を制限したり禁止する。私有(自分のもの)も、共有(みんなのもの)も、「所有」であることに変わりはない。
 みんなのものなら、その中の個々は自由にどのようにでも使えるかと云えばそうではなく、みんなによる規則・監視・罰則が必要となる。

3.無所有とは
 地球は人間のものでもなければ、地球上に住む動植物のものでもない、地球は誰のものでもないというのは、多くの人に納得して頂けると思う。そして、人類は地球とは別に存在するものでなく、地球から生れた地球の一部である。その人類が自分個人も含めて、地球上のものを人間誰かのものとして所有し、それ以外のものは許可なく用いることが出来ないとしていることは、果たしてどうだろう。
 私たち人間が求める豊かさは、所有することが目的ではないだろう。豊富な物資を自由に使えればよいのである。しかし、今までの人間社会は、その手段を所有に頼り、所有しなければ貧しく不自由で、所有が増せば豊かで自由になる、という所有の観念一色と云ってもいいだろう。
 もしも誰もがいくら使っても有り余るほど豊富にあるならば、わざわざ所有して他には使わせないよう目を光らせているのは、ばかげたことである。限られたものでも、所有したからといって絶対量が増える訳もない。限られたものを個々に所有すれば益々不自由で貧しい人は増えるだろう。
 例えば、100あるものを誰かが10所有したら、誰もが自由に使えるものは90になる。更にみんなが少しずつ所有して100所有したら、誰もが自由に使えるものは0である。そして夫々が自由に使えるものは夫々が所有しているものだけである。これが今日の人間社会の実状である。人類の歴史は所有の増やし合いの歴史と云っても過言でない。
 所有するということは、支配するとか占有するとも云えるだろう。
 誰々のものだから、勝手に用いてはいけない。これが所有観念であり、その実態である。
 所有が無いということは、誰もが自由に使えるものが100あるという状態で、どこにも誰にも「所有が無い」という意味である。
 地球上のものに限らず、宇宙万物すべて誰のものでもない誰が用いてもよい。

4.所有観念を無くす(すべてを放す)
 人間には元来、所有観念が無いから、所有観念を植え付けない限り、所有観念を持たない。幼い子供には所有観念が無いから、今の社会では親や学校の先生が子供に所有観念を着けることが大きな仕事になっているとも云えるだろう。そして、周囲社会が所有観念で営まれているから、成長するに従って言葉を覚える如く、所有観念に染まってしまう。
 所有観念さえ着けなければ、元々の所有観念の無いのまま生涯を生きていけるだろう。
 所有観念があると、自分のものは好きなように使うし、ヒトのものは自分のもののようには使えないし、何れにしてもものを活かして使うことが出来ないだろう。
 所有観念のある人(今の社会普通人の殆ど)が、無所有になるには所有観念を除去する必要がある。所有物を無くすのではなく、所有観念を無くすことである。
 所有観念を無くすとは、持っているすべてを放すことである。私有共有の物財をすべて放して所有の無い状態になることである。
 放してもものは無くならない。放したら無くなってしまう、取られてしまうと思い込んでいること自体、所有の観念に縛られているからであり、所有の観念から抜け出せていないからである。
 すべてを放して、誰も持たないことによって、どんなものでも誰もが自由に使えるようにして、最大に活かしていこうとするものである。
 蓄えたり確保することと所有することは別である。何々用とか誰々用など用途や所在を明確にすることと所有とは別である。所有があると必要性よりも、「何々のものだから誰々のものだから他へは使わせない」となる。所有が無ければ、必要に応じてどこでも誰でも使用できて、そのもの自体最も活かされる。
 持つ(所有する)ことが豊かか、放す(無所有になる)ことが豊かか。
 無所有とは物があり、必要なところで、必要なだけ使われることである。
 無所有の実態は、所有観念が無くならないと、理解できないだろう。
 所有観念の人が無所有を理解しようとしても、所有しない貧しさ不自由さしか想像できないかもしれない。そして、多少解りかけた人でも、現実的には無理だ不可能だ、社会としてはそんなことではうまく成り立たないなど思う人も多いだろう。しかし、可能性云々については、既に無所有の理念ですべてを放して、社会生活を行なわんとする人達の実態があるので、それを以て検証して頂きたい。