< ヤマギシズム 理念 解説 >
無我執

1.我執とは
 元来人間には執着するという観念はなく、周囲からいろいろの観念を受けて執着する観念がつくられる。
 怒り・憎しみ・対立・反目などの元にあるものは執着する観念である。
 執着という言葉は、何か対象となるものに執着するという意味で用いられているが、執着しているのはまぎれもなく自分自身であるから、執着とは全て自己に対する執着である。厳密にいうと、自己の観念への執着である。
 この自己(の観念)に対する執着を我執という。

2.本能的欲求と執着
 危険から身を守るとか生存を続けようとするのは本能的欲求とも云えるだろう。だが、それを生への執着と云う人がある。食欲、性欲、知的欲求や向上心などの夫々にも、本能的欲求と執着とを分類しないで混同している場合がある。本能と執着は別のもので、執着とは後天的な観念である。煩悩とか性(さが)と云って人間の本能であるかの如く観念づけているものにも執着観念であることも随分多い。つまり後天的に周囲社会から身に付いた観念を、あたかも生れながらのもののようにして扱っているのである。
 感情や欲求や無意識的行為などについて、本能的なものか観念的なものかをよく検べる必要がある。

3.我執の実態と認識
 今は仲良く楽しく円満にやれているようでも、それと異なる事態が訪れて、怒りや憎しみが生じたり、人と対立・反目するとしたら、我執があるからである。現象面に生じていてもいなくても我執はある。
 自分の意に沿わないものに怒りや対立感情を抱くのは我執があるからである。意に沿っている間はそういう感情が生じないのは当然で、それはそれだけのことであり、我執が有ることには変わりない。
 怒りや憎しみのほか、頑固・強情・キメつけ・非難・自惚れ・高慢・排他・卑屈・忍従・遠慮・虚栄・侮辱・自信等々対立感・差別感・優越感・劣等感等、人と人とが楽しく仲よくしていこうとするのを妨げる原因をなすものは我執であり、これらはみな我執の現れである。
 旧来より、これらは人間には当然あるものとされている。無くすることは出来ないとか、無くなったら人間ではない、とまで云う人もいるだろう。これに対する議論は別の機会にすることとして、ここで繰り返し確認しておきたいのは、我執とは自己の観念への執着であり、それは後天的なものだということである。
 無我執とはこれらが一切ない状態のことである。
 人間には我執は不要で、無我執が人間本来の当り前の姿である。

4.無我執とは
 人と人の間において、危害を加えたり生存を脅かすような行為は、怒りや憎しみなどが無い限り有り得ないと思うが、たとえ危害を加えられたり、生存を脅かされたりするような事があったとしても、そして、その結果どんな事態に至ったとしても、無我執であれば、そこには怒りや憎しみや対立感情が生じない。
 生まれたばかりの赤ん坊をみてみよう、世界中どこを捜しても、我執のある人間は生まれてこないと云い切れるだろう。
 怒りや憎しみなどは、幼ければ幼いほど無いのは衆知のことだが、これを世間を知らないからとか、知能が低いからという理由だけでは済ませたくない。執着する観念やそれにに伴う感情を知らない、つまり周囲からまだ植え付けられていないからである。
 知能が成長し、社会のことを知ったからといって必ずしも我執が生じるわけではない。
 執着する観念が植え付けられなければ、人間は生まれたままの無我執状態で成長し、生涯を全するだろう。それでこそ正常な人生だと思う。
 そして、我執の多く着いた観念の人でも、それは方法を以てすれば、我執を除去することができる。