< ヤマギシズム 理念 解説 >
研鑽

2009.5.19 研鑽とは を参照して下さい。
 
 1.研鑽とは
 研鑽とは、高度の科学的分析とか総合哲学的徹底究明方式とも云える。
 凡てを考え行うにあたって、過去よりの参考資料と、新しい直感・発明・発見・考案等を採りあげて、そのいずれにも拘泥しないで、その段階の結論を見付け出し乍ら実践する、研鑽・実践、実践・研鑽の連続である。それには古今東西の人間の知恵・考え方を生かして全世界の頭脳・技術を持ち寄って研鑽するものである。
 何千年も人類が取り組んでも出来ないことなのだからそれは不可能なことだとか、人類史上ずっと続けられていることだから疑う余地もないとか、誰もが望んでいる誰もが良いと言っているからそれが良いとか、超人間的に優れた人の考えで世界中の人から指示されているのだから間違いないとか、その道の最高水準の専門家達が究明し科学的理論的に立証されていることだから間違いないとか、それらに関してはもう検べる必要がない、ということのないあり方が研鑽である。つまり、どんなに絶対だ間違いないとされていることでも、本当にそうかどうか、その時点ではそういう結論に達したが、それもまだまだ検べてみると、間違いが発見されるかも分からない、とどこまでも究明していくものである。
 これに関しては科学的にも哲学的にも究明され尽したことだから、もう検べるまでもない、というのは人間が見つけ出した結論を固定して動かそうとしないものである。
 固定して動かそうとしないものを前提にして、それに立脚してその上で色々なことを科学しても、その前提そのものを科学する態度を失っているから、本当は科学的態度とは云えない。自然科学で既に立証されていることでも、もうこれは間違いないのだから、と検べようとしないのは科学的態度ではない。そうではなくて、如何に寸分のくるいなく証明されたことでも人間が見つけ出した現時点での結論だとして、将来ひょっとするとこれも覆されるかも分からないとして、凡ゆることにキメつけ固定を持たないで、科学していこうとするのが研鑽である。
 自然科学に比して、人間の精神心理面の科学や社会科学に関しては、更にあいまいな点が多々あるであろうし、これだと結論づけられるようなものは、今迄にもあまり見付け出されていないように思われる。しかし、その心理学や社会学の中には甚だしく多くの固定キメつけた前提を基に科学しようしているのが実情ではなかろうか。
 自然科学にしても、科学するのは人間なのだから、人間科学や社会科学が進めば、もっと自然科学の進展を見ることができるだろう。そして、肝心の人間自身の問題や人間社会のあり方や、今日までの宗教や思想など、研鑽によって根本から哲学的科学的に究明していくと、飛躍的に解明されてくることが多々ある。

2.研鑽態度
 研鑽するには研鑽態度が必要である。研鑽態度とは、固定キメつけを持たない態度、絶えずこれで間違いないか正しいのかと検べていこうする態度である。
 固定やキメつけのない態度と聞くと、ああそうか、と分かったような気になり易いだろうが、また実際そんなにも固定やキメつけはないと思うかもしれないが、何かに直面した時、例えば「そんなことはひどい、許せない、間違っている」と反応するものが出るとしたら、そこには前もって固定やキメつけがあるからではないか、と自分自身を調べて省みることはできるだろう。こうして調べてみると、日常生活の中にも多くの固定キメつけを発見できるのではないだろうか。
 人の話を聞く場合も、専門家や学者が云うことはよく聞いて、素人や子どもの云うことは聞くまでもない、という態度はどうだろうか。そこには自分なりの固定キメつけがあるのではないだろうか。この人が云うことはあてになる或いはならない、と聞く時点で既にキメつけを持って聞いているのではないだろうか。もしかすると、大学者よりも幼児の方が真を突いたことを云うかもわからない。
 誰もが知っている有名な事件なども、自分が知っているのは新聞やテレビを通じて知ったにすぎない事を事実だと信じているということもあり得る。もしも「そんな事件は無かった」と云う人がいた場合、「その人は事実を知らないのだ」とその人が間違っていると思うのは、新聞やテレビや他のみんなも云っているのだから事実はこうなのだ、というキメつけを持っているからだろう。キメつけや固定を持っていなければ、私はこれが事実だと思っていたが真相はどうなのだろう、とその人の言い分にも耳を傾けようとするだろう。
 研鑽態度は、頑固な態度の反対の謙虚な態度と云ってもいいかもしれない。
 自分には学問もないし、これが正しいなどと断定して云えるものは何もない、自分には分からないから、ああいう立派な人たちや、世界中の人たちにそうだと信じられていることなら間違いないからそれを頼りにしていこうと、これも一見謙虚に見えるが、その中身は、こういう人なら信じられる、こういうことだから間違いない、と自分の判断でキメつけるもので、謙虚に見えて頑固なものである。
 科学的に深く究明して立証されたり、理論だけでなく理論通りに実績成果が得られたり、多くの人に賛同指示されたり、公に認められた機関で判定を下されたり、自分で直接見たり聞いたり体験したこと等々、明らかな根拠があるから間違いないと断定して、それ以上調べようとしないのは研鑽態度ではない。
 研鑽態度とは、科学的に徹底究明する態度であるから、どこまで深く究明して、素晴らしい成果や結論に達しても研鑽が止まらない終わらない、究明態度の連続が研鑽態度である。

3.研鑽会
 最初にも述べた通り、研鑽は凡てを考え行なうにあたっての考え方行ない方であり、またそのあり方でもある。
 凡てを考え行なうにあたって、ということは個々の日常生活はもとより、政治・経済・産業・流通・教育・福祉・学問・芸術など人間社会生活・社会運営の凡てに渡って研鑽によって考え行なうという意味である。
 人が考え行なうのは、個々に考え行なうのと複数で考え行なうことがあるが、研鑽では一応の分類として、自己研鑽・対話研鑽・研鑽会としている。
 各自が研鑽態度で考え行なうこと勿論であるが、人間は誰もが社会生活を営んでいるから、小さくは家庭内から大きくは世界的な課題に至るまで、複数の人と人とが相寄って考え行なう研鑽は、研鑽会が基盤となる。
 前述の通り政治・経済・産業・・・・・・等々、人間社会の凡ゆることを研鑽で考え行なうということは、この研鑽会がもっとも重要となる。
 固定やキメつけを持たないのが研鑽であるから、社会運営に於ても従来の議会運営とは全く異なったものとなる、また様々な組織や団体の活動や運営に於ても誰か決定権のある人達の考えによって決めるのではなく、凡てが研鑽会によって研鑽運営されるのである。
 如何なる研鑽会も、出席者には席順とか待遇など上下なくみな同格である。そして誰のどんな意見や考えも尊重するのが研鑽であるから、少数意見を多数の意見で圧倒するような決定方法はとらない。
 また、従来よりの慣例によって今日の課題を決定したり、法規や道徳観・倫理観など社会通念で判定したり、世論や多数意見に従ったり、実力者や偉い人たちが居てそういう人によって裁かれたり、これらはみな研鑽のあり方とは異なるものである。
 研鑽会によって研鑽しながらの検討や運営は、出席者全員の話し合いによる納得で行なわれる。研鑽には理論の研鑽・方法の研鑽・実行実施の研鑽、と一応分類できるが、いずれの場合も研鑽会によって話し合い研鑽が行なわれ、一致点を見出しながら進められ運営される。つまり、研鑽会で研鑽しながら実践し、また研鑽する。研鑽・実践、実践・研鑽の連続である。