< ヤマギシズム 理念 解説 >
一体

1.一体とは
 全ての天体を含む宇宙自然万物は、個々別々に存在しているものは無く、空間的に離れた位置にあっても、元々一つのものではないだろうか。
 宇宙というと実感が伴いにくいが、地球を例にしても地球は一つのものであり、そこに存在する凡ゆるものが、何れを指しても地球であり、地球の部分であり、まるで別個に発生し存在しているものは無いだろう。
 これを身体にたとえて、一つの体という意味で「一体」としている。
 ここで云う一体とは、個々別々のものが寄り集まって一体になるというものではない。
 身体の場合、心臓とか肝臓とか、或いは腹とか胸とか、これらは機能的や位置的に分類する為に便宜上の名称であって、それぞれが集まって体が出来ているわけではない。
 宇宙の起源は一つのものらしいが、状態が変化しても昔も今も未来も一つである。
 身体の場合も一個の受精卵が成長して体を形成しているのであって、元々一つであり今も一つの体である。
 一体の中の一単位一単位は夫々に密接に繋がっていること勿論だが、繋がっているとも云えるし、夫々が一体の部分であるから、お互い総てが同胞・身の内であると云うことができるだろう。
 自分と他人、自他という言葉を便宜上用いるが、一体であるから他人とか無関係という人も物も無い筈で、右手と左手のような間柄であり、或いは心臓と肝臓のようでもあり、またその中の一個一個の細胞同士のような間柄と云えるだろう。
 先に地球を例にしたが、人類を例にして見ても、人類は一体の一部であり、人類そのものも一体という観方である。
 これをもっと分類して、夫婦、親子は一体というのは分り易いのではないだろうか。親子なら親にとって子は、自分の分身とか我が身そのもの、或いはそれ以上のものであろう。我が子が犯罪を犯せば、責めたり憎んだりどころか、吾が事のように辛いであろう。また、子より孫は尚可愛いという心情や、男女間の愛情など、人と人が自他の隔てなくなった一体の状態の現れだと思うがどうだろうか。
 しかし、これも親子の間だけ、夫婦の間だけならば、それ以外とは隔てがあり一体ではないということになるから、ここで云う一体とは異なる。
 ここで云う一体は、宇宙万物、自然全人、凡てが一体ということである。その中身を説明するために親子などの例を出したが、自然全人一体とは凡てがこの親子のような関係であるという意味である。
 例えば、考えや目標が一致しているとか、或いは気が合うから一体だ、というような条件付きのものはここで云う一体ではない。この世に存在する凡てが無条件で一体なのである。自分にとって有益であろうと、害毒であろうと、みな一体である。

2.一体観
 一体観とは、心の状態や思考や言動が一体に基づいたものになることである。つまり自他の隔てがなくなり、他人事や自分に無関係の事もなくなり、何でも自分のことのような心境になり、自分の事として考え行ない、「自分は自分 人は人」とか「自分さえ良ければ」という考えはおこりようがなく、ひとを見過ごせなくなる。
 如何に、一体だ、一つだ、繋がっている、切り離せない、ということが理解できても、自分のみ或いは自分の周囲のみの為に考え行動するのなら、その人自身は一体ではない。
 一体観に立つと、不良や犯罪者もその人ひとりに責を負わすものではなく、負わしたところで根本的解決にならないことも分かるだろう。また、台風が他地方へ行って良かったとか、災害が起きても自分の家族が免れて良かったなどと喜べないだろう。
 一体観の逆を云うと、個別観とか自己中心観とか利己主義とか云われるものだろう。何処に住んで、何をどれだけ食べ、どんな衣服を着て、何を仕事として暮していくか等々、考え行なうこと全てに於て、一体観の人とそうでない人とは、まるで異なった生き方になる。
 自分は利己的ではなく、みんなの事を想い、社会のお役に立とうとしていると思っていても、われ先にと利己的な人を見て、責めたり蔑んだりするのは既に一体とは云えない。
 身体で云えば、各器官はそれぞれの持ち場を全うして身体を正常に保とうとするのみである。責め合ったり争ったりしない、どこかに欠陥があれば、それぞれの持ち場において、その欠陥を補い身体の正常化をはかろうとする。
 永い年月をかけて進化してきた生命体の緻密さ正確さには学ぶべきところが多い。身体における臓器の一つ一つ、あるいは一個一個の細胞は、まるで意志があるかの如く、一体観に立って行動している姿そのものである。
 この一体という理念は、我々人間が一体観に立って、宇宙自然界の或いは生命体の一体の姿そのままに考え行なっていこうとするものである。