< 現象・無現象 >
行為や現象に現れた もとの心を正す (1997/4)

 現象面を見て是非や優劣を判定し、現象面を整えようとして現象面に手を打つ背景には、現象界に一線を持つために、観念界に「ねばならない するのが当然」というものがついてまわるでしょう。
 心の世界に目を向ける研鑽を重ねることによって、現象面に現れているもとの心を観ようとするイズム社会の気風が漲って来ました。どうしてそういう行為をしているのか、なぜそういう現象になっているのかを探って、もとの心に達する研鑽を進めていくのです。
 例えば、時間がないから焦った 順調だから油断した 分らないから困った うまくいかないから暗くなった などは理由づけているだけで根拠がない。このような心の状態になる原因は何かと検べてみる。そして仮に、不安や心配 義務感責任感 利己意識や優劣感などが発見できて「だから こういう心の状態になって こういう行為や現象になった」のだと知っても、それも理由の説明であって原因の解明にはならない。このように観念界や心の世界に、落ちつかない正常でないものが生じるもとの心まで見届けないと根本的解決には至らないでしょう。
 私たちがヤマギシズムに出会い、怒りや所有や執着から解放されたのも、もとの心にある束縛に気付いたからで、ここにこそ凡ゆる現象面解決の糸口がありそうです。

『蒔いたとおりの種が生える、簡単なこと』
 「日常の総ての現れはもとの心の顕れ」ならば、総ての働きはもとの心からの働きであり、その働きは心に応じた作用を及ぼしている筈です。例えば、こわれた機械を直すという行為ひとつとっても、単に直せばよいの心なのか、本当に正しく使われる事を希う心なのか、その人の心によっては機械が直るという事に留まらず、それに関わる多くの人の心へと及んでいくことでしょう。
 社会の中の仕組みや施設や行事にしても、物や形を整えて喜ばすという考え方でやっていくなら、物や形を整えたら喜ぶそういう人や社会になっていくでしょう。心が豊かになることを希ってできた仕組みや施設や行事なら、心を調える方向に作用し、そういう心が育つ社会になっていくでしょう。
 一見同じに見える行為の中にも、自発的で自由なものと義務感責任感からのもの、みんなを想う心からのものと私心からのもの、その異いは必ず結果や現象に現れるのです。
 毎日毎日、瞬間瞬間、生きている限りなんらかの行為をしている。つまり無数の種を蒔いている。そして、蒔いたとおりの種が現象となって生えてくる、生えている。私たちがやれることは種を蒔くことです。本当の種を蒔いて、そこに現れるであろう本当の現象で、拡げましょう、愉しみましょう、この世界を−−−。