< 現象・無現象 >
日常の総ての現れは もとの心の顕れ (1997/3)

 日常生活で「足りない」とか「出来ていない」という言葉が出てきてそれを使ったからといって、事実を見ていないとか何か一線持っているとは限らないでしょう。それと同様に無所有や一体という理念も表現や形や現象でとらえていないかと検べていきたいです。
 例えば、イズムで云う「持たない・執われない」というのは、そういう心の状態のことであって、その心の状態をそのようにしようとしないで、形や現象に置き換えて「こうすることだ」と観念化していると、執われないというあり方に執われる、持たないという姿形を持つ、無いのが当然と思ったらちっとも有るものが見えない、ということにもなりかねません。

 真理の世界のことを、観念界や現象界のものに置き換えて「こうだ」とすることなど出来るのだろうか。観念化・現象化する以前を心の世界の底におくと、有るものが有るだけありのまま観えてくる。それが「無」という零の線でしょう。この本質的ものの観方が現実的ものの有る無しによって変化しないで済む筈ですが、つい日常、事物と接し当然のように扱っていると、本質と現実とが混線して「有るのが当り前」という観方になったりするのでしょう。
 現象の観え方は、観る一線つまり心の世界に応じた観え方となり、その観え方に応じた思いや行為に現象化していると云えるでしょう。この理が分ると、本音と建て前とか心にもない行為とかは、そう思っているだけで、実は心どおりにしか行なえていない、心のままが現れているという事実に気付かされます。意識のあるなしに関わらず仕事にも食事にも全生活の行為行動に、もとの心が顕れているのです。社会そのものがそこに住む人のもとの心の顕れです。現象面だけ整うことはないのです。現象面だけ崩れることもないのです。出来ないのです。形だけでやろうとしても−−。
 観る一線・理念観念・心の解決をイズム生活で最も重視する所以です。事の良し悪しを云う前に、どういう心の顕れであるかをよく観て、心の世界を根底から正常化していきたいものです。

『心が豊かになりさえすれば、物が豊富になる。』
『心をととのえることだけ、やっていさえすれば、現象がととのい、ひとりでに物が豊富になる。』
『真理から外れて、真果は得られない』
 本来、もともと、真理の世界では執われたり縛るものは何も無く、真実の世界では規則や約束も不要で、誰もが自由に思いきり伸び伸びと暮らせる、それでいて整然と治まっていく、広い明るい豊かな世界なのですね。