< 現象・無現象 >
現象有無心中不問 (1997/1)

『有るということは無い、無いということは有る、みんな無いからいくとねーー。』
 現在、現象として存在するものの要素は百年前も百億年前にもこの世に全て存在していた筈、それは将来もずっと存在する筈、今見えなくて将来に出来るものも、その要素の全てが既に存在している筈です。
 「有る」とか「無い」とかは、存在しているもののその時の状態の呼び方であって、存在そのもののことではないようです。また、現象化したものを「有る」と呼ぶかと云えばそうでもなく、事によっては現象化していないものも「有る」と云えるでしょう。果たして私たちは何を以て「有る」「無い」としているのでしょう。

 物量や見栄え出来栄えを追わないのに、追わないからこそ豊かに栄える理、その顕れがヤマギシズム社会の実態です。食べることに執われない食生活、量に執われない物の豊満、成果に執われない進歩向上など、家も道路も、庭や花木も、車や機械も、食べ物や衣服も、仲良しも楽しさも、どこをとっても何を見ても、現象に執われない心によって出来た現象です。
 たとえ形の上ではそれ以上に見える所が他にあったとしても、どこが異うかどこが異うかと問えば、先ず物や形をと、規模や人数をと、評判や実績をと、現象を追い求めて出来た現象(社会)と、天と地ほどと云うべき質の異いが鮮やかに観えてきます。
『現象界の何ものにも執われない心の解決したものの現象面への顕れは必ずそういう形になって顕れるもの』
 ヤマギシズム社会への歴史は現象に左右されない心の人達の足蹟とも云えるでしょう。
 形や数量を見て出来た進んだとする目を取り替えて、そういうものに左右されない心が出来たか進んだかどうかと、現象化している事実実態の中にある本質を観れる目を養いたいものです。
 現象界の有無に左右されない心、そこは暗さ乏しさの出ようのない真昼の世界です。揺るがない心から、揺るがない人が生まれ、揺るがない考え方が宿り、揺るがない社会へと現象化する、それが本当の社会、即ちヤマギシズム社会。
 ヤマギシズム社会化要素はこの世に全て存在している、それを実態と云えるものにする活動です。