< 豊かさ観 >
豊かさも明るさも 観る一線の問題

 『観念と 事実 考え方とは、必ずしも一致しないと云える。』
 「無いのが当然」という観方が解っても底辺観念がそうならなければ、その都度そう思おうそう見よう、と云い聞かせるという域を出ないでしょう。物の本質や理に則した考え方や事実をありの侭観れる観方で、考え行動できる下地観念になるところまで、もっと研鑽したいものです。

 無いのが当然なら、有るのは当り前とか本当とか云えない。有るというのはたまたま条件が揃ってある間の状態のこと。そうすると、凡ゆる物事は原因があり条件が揃っている間だけ存在して、いつ迄持続するか判らないという不安定なものだということ。
 無いのが本当、物も光も何も無い世界に立てば、無い暗いという感覚はない筈、あるのは「見える明るさ」「有る豊かさ」。
 人間には、無いもの暗いものを認識することは出来ない筈で、暗い乏しいと感じるのは比較観念であって、敢えて云うなら、本来この世は明るさ豊かさだけしかないのでなかろうか。
 これは物象面のみでなく、無現象の心の持ち方、つまり観方・考え方にも通ずることで、何も持たない零の線に立てば世の様がありの侭観える、ありの侭の明るさと豊かさが観えるから不安や心配がなく、明るく暖かく楽しく心豊かになるのです。
   明るい=見える=安定・安心=豊か
   暗い=見えない=不安・心配=乏しい

 間違った事実が有る、事実を誤解する間違った観念も有る、間違いを正していこうとする考え方が有り行為が有る、そこに顕れた本当だろうと思われる実態が有る、みな有るものばかりです。
 明るく豊かに見えるのは、ありの侭見ようとしているからで理由がなく、暗く見えるのは何か持っているからでしょう。ありの侭見ようとするのは善意的に良く見ようとすることではなく、良く見るのも悪く見えるのも何か一線持っている。
 何も持たない放し切った零の線から観ると、有るものがありの侭見える。決して暗く見えない、全て明るく見える。なんと愉快なことでしょう。なんと豊かなことでしょう。そこから、良いものはより良くしていこう、間違いは正していこう、となる。
 私たちは本当を目指しての本当の行き方をする、そこには本当の観方・考え方からの出発がある。
 本当の観方に立つか、そうでない観方で暮らすか。
 陽的社会、心物豊満の昼の世界は、明るい豊かな本当の線に立った時が、そのスタートになる。