< 豊かさ観 >
放せば齎される豊かさの実態 観る

 本来、真の幸福であるべき人間は、誰もが豊満で安定・安心した暮らしを求めています。しかし、持っていないと不安だと思うなら、そのこと自体が不安定で豊かでない証です。不安 心配 不平 不満 落胆 期待外れ 等みな持っていることの現れでしょう。
『私の考えも、肉体も、生命も、放したらどういう事になるか。よく考えてみると何か持っているという事ね、そうすると分からんの。』
 持っている=固定している=有るのが当然としている
 放せば有るものがありのまま観えるが、持つと有るものが観えないから乏しい。豊かさとは本来齎されるもの、持ち 囲い 掻き集めるところには齎されるということがない、つまり豊かさがないのです。
 放す=無いのが当然=齎されて有るものばかり
 「無いのが当然」だから有るのは当然でない。そうすると「無い筈なのに これが有る あれも有る こんなにも有る」と観えるものは有るものばかりです。「有る筈なのに」というのはないのです。持つ人の「有る」は無くなる不安がつきまとう。放した人の「有る」は失うものが無い全部「有る」ものばかりです。
 他に求めたり、依存したり、期待したり、あてにして信じたり、約束して縛ったり、そういうものを放しきった「無いのが当然」の私達には、不平不満のない歓び一色の社会が齎されつつあります。
 無い筈のところへ齎された「有る」。まるで豊かさがどこからともなく訪れたような社会です。どうやら、元々無い筈のものが有るという豊かさ観、これがヤマギシズム社会の実態のようです。