< 豊かさ観 >
豊かさも本質もそこが観える開眼

 真底からの正味の豊かさから見ると、「これだけ無かったら」という線を固持している限り、その人流の観念的・感覚的な豊かさでしか味わう事が出来なく、私たちが目指す本当の豊かさから遠ざかるばかりです。必要物資が空気や水のように得られるように成れば成る程、物の価値を忘れ、豊かさが薄れるようでは、その人にとっての豊満世界は永久にやって来ないのです。
 欠乏感や不足感がある場合、それを癒すために物を増やせば一時的満足感は得られるが、逆に物の価値が薄れて豊かさがない。それの繰り返しを止めて、豊かさの観方を開眼することです。
 真に「そのものの価値」を知ろうとすれば、有ること自体の「豊かさ」が観え、それをもっと豊富にして、もっと広く大きく活かしていくことにより、「豊かさ」は無限に拡がり果てしなく齎されていくのです。豊かさの本質的観方から本当の価値を知った人は、数量の多寡によって価値が薄れたり下がったりしません。
 無くて当り前のゼロの線に立った人は、あとは有る、在る、ある、の連続です。
 私がいる、多くの同志がいる、建て物があり、職場があり、いろいろな施設があり、木や花が植えられ、子どもが育ち、暮らしがある。作る行為、届ける行為があり、贈り合いがある。研鑽があり、研鑽会があり、一人一人の意志があり、みんなの意志があり、それで毎日営まれている。一人一人に無形の背景がある。有るものばかりです。在るものがあるだけ観れる人、今は無いものに有る姿が観えて画ける人、みな観え方のテーマであり、それへの開眼です。
 永い年月を経て創りあげられた自然界に存在するものは、何らかの本質的価値があって存在しているのでしょうが、今の人間社会での人為の中には、その方向に則ったものと、逆方向のものと、何ら本質的価値のないものもあるでしょう。私たち合真理、真理指向の社会のあり方として、現象的なものの観方のみでなく、その本質が観えるよう開眼し、併せて社会気風そのものを、ものごとの本質を観ていく気風としたいものです。