< 豊かさ観 >
豊かさ観の差異と豊かさの満喫度

 豊かさとは、と探っていくと、物が豊富にあるという事だけで、皆が均等に豊かになれるとは限らないもので、各自の豊かさ観によって、齎される豊かさは天と地ほどの違いがあることが観えてきました。
 「もっとよりよく」とは誰もが願うところですが、それも自分がどの線に立っているかということで、「これだけなかったらあかん」という自分勝手に作った基準線から見ていたら、それ以下になったら豊かさどころか不足感不満感になるでしょう。
 例えば今、50あるとして、その50に立って「もっとよりよく」としていたら、50より増した分を「よくなった、豊かになった」とするでしょう。もしもそれ以下になった時には、その人の豊かさがどうなるかを考えてみたいものです。その時に不平不満感が出るなら、前の80、90あったものは一体なんだったんだろう。豊かどころか却ってそれが仇になって、不平不満感の元になってしまうのです。物が豊かになることが不幸の原因になることもあると云われる所以です。
 50ある実態を50ある正味の豊かさとして満喫しているか否かが問われます。「これだけなければ豊かでない」「これだけあるから豊かだ」とするのは、正味の豊かさでなく、上げ底の豊かさ観です。底が上がって60、70になっていくと、その人の豊かさの範囲はどんどん狭くなります。いくらあってもさほど豊かとも思われない、出来ていないところばかりが目につく乏しい人生になります。「減った、少ない、もう一つだ」と思う時の私の豊かさ観をよくよく検べてみたいものです。
 一粒の米、一個の卵、一杯の牛乳の豊かさ、人造的物質が一物もなくとも自然界そのものの豊かさ、真価を、私はどれだけ満喫しているでしょうか。
 日々の生活の凡ゆる暮らしぶりに、その人の豊かさの満喫度が現れているでしょう。それを互いに見合って、真底からの正味の豊かさ観を自分自身の幸福度のために確立したいものです。