< 小論 と 解説 >
我当然 執抹殺 (無我執) (1996/8/10)

 ここで云う我当然の「我」とは、自己に執われない「我」という意味です。
 これとは別に、我執のことを指して、「我」と云う場合もあります。
 我抜き、我が強い、我を張る、我を通す、など云う場合の「我」は、我執のことです。
 「我執」とは自己に執われる観念、自分の考えに執着する観念のことです。
 執抹殺とは、この「我執」を無くして、無我執状態になろうと云うものです。
 自分の考えや好みというものは、生まれてから今までの体験・経験や、周囲環境から植え付けられた観念によるものが殆どでしょう。しかし、その自分の考えや好みを、まるで自分のもの、自分そのもののように思い違いをしていることが多いのではないでしょうか。
 自分の考えや好みを通そうするのは、他を受け容れられないことになり、それは決して自由な状態ではなく、その人本来の個性でもなく、単なる自己への執着です。これが強ければ強い程、どんどん偏狭になり、不自由になります。自分の考え好みを通そうとするのは、自由でも個性的でもなく、実は本来の自分を忘れた、自分の考えや好みに縛られている状態と云えます。
 自己に執われない「われ」、つまり無我執状態であってこそ、最も自由で、その人の個性・持ち味が発揮される状態だと思います。しかし、自由とか個性というのを取り違えて、自分の考え優先で行動したり、自分の好みや感情のままを自由だとか個性的だとしている場合が多々見られます。こだわり・がんこ・気まま・わがまま、などを良いことのように云うのは、自由や個性ということを取り違えているからでしょう。
 自分の考えや好みに執着していては、本当の自由や、その人らしさの発揮は出来ないでしょう。しかし、自分の考えや好みを通すことが自由とか個性的であるというような思い違いが、今の社会には横行していると思います。個人主義が蔓延し、核家族で個部屋が当り前となり、大人だけでなく子供までも、自分の考えや好みを通して、それに反するものは受け容れられないような、自分の観念で自分を縛る、不自由で本来の個性を発揮し得ない我執助長の社会風潮になっています。
 自己に執われる観念、即ち「我執」こそが、人と人とが相容れないものとなる原因をなすものだと思います。自分の考えや好みにこだわり、頑なに固持し、それが通れば気分を良くして仲良くするが、そうでない場合は互いに離れていく。人類間の凡ゆる争いの元をなすものと云えるでしょう。
 個性を発揮し自由闊達な人間本来の生き方をするには、元々無かった筈の不必要な「我執」に気付き、この「我執」を取り除くことが、何よりも優先することであるとしています。