< 小論 と 解説 >
今のままでよし (1996/5)

否定なし その儘 認そこからの出発

 「無くて当り前」とは、「こうあらねばならない」というものが一切無い状態。「ねばならない」ものが何も無いということは、如何なることに対しても否定がなく、「そのままを認められる」という状態。「そのままを認める」ことと「ヤマギシズム」の観方との深い関わりが観えてきます。
 おなかが空いたから食べる、疲れたから休む、汚れたから洗う、足りないから増やす、狭いから広くする、遅れたから急ぐ、壊れたから直す、傷めたから治療する、病んだから癒す、下手だから上手に、暑いから涼しく、寒いから暖かく、悪いから良くする、などなど・・・・、殆ど反射的に反応しようとするものがあります。
 日常生活の凡ゆる事々に研鑽の光を当ててみると、思い為すことの根元に「・・・・ならあかん」というものが厳然と有ってそれを避ける為にやっているのか、或いは「無くて当り前、そのままを認める」で出発しているのか、即ち「あるのが当り前の世界」か「無くて当り前の世界」か、正反対の出発点の異いが観えてくるでしょう。
 「そのままを認める」などと云っても、世界中に不幸や間違いが沢山あるのに、それでは何も変らないじゃないかと思う人がいるかもしれません。しかし、「無くて当り前、そのままを認める」という世界に立って観ると、これまでの人間世界では「無くて当り前、そのままを認める」になっていないから、不幸や間違いが生じるのだと、人類史上未解決であった、その根本原因が鮮やかに観えてきます。
 政治にしても、商取引にしても、教育も福祉も、学生の勉強や主婦の家事に至るまで、社会運動も宗教活動も、老若男女誰を見ても何をとっても「・・・・ならあかん、ねばならない」という観念からの営みばかりでしょう。
 今の世の中を否定するどころか、今の世の中そのものが「・・・・ならあかん」という否定を土台にしているから、そこのとこを「否定のない、そのままを認める」そういう観念世界への革命に始まり、現状そのままで急転直下、にこやかな真実世界にヒックリかえすのが、このヤマギシズム社会化Z革命です。