< 小論 と 解説 >
山岸さんエピソード MWさん談 (1996/3)

汽車の中で「人間の条件」を読んでいたら、『なんで、そんな本、読んでるの?』
『読まん方がいいよ、読むくらいなら書いた人に会いに行ったらいい』

『甘いものが欲しいというのは我執や』『食べたらあかんことないけど』
『食べて、考えてみたらいい』『あとで、その感想聞かせてね』

ゲジゲジみたいな虫を見た時、『なんで、こんな虫がいきているのか』
『成るべくして、そう成っているのだな』
『そこから全てが解けて、ショックのあまり倒れる程だった』

春日へ着いて来たお母さんが、「理想社会と言うて、パンツ一つ買えへんやないか」
『本当にスミマセン、もう少し待って下さい』と頭を下げて謝った。
そうしたら、その人が「山岸さんは本当にエエ人や」

ヤマギシ猛反対のおばあさんが仏壇で拝んでいた後ろで、一心に手を合わせて拝んでいたら、おばあさんが「山岸さんはエエ人や」

いつも『なにやりたいの?』  何かいうと『それやろか?』

鶏でも米でも、栄養素など何が足りないか、全て見える。

本の表紙を見たら、斜めに読む本か、縦に読む本か、分かる。

家で養鶏やっていた頃、自分等の調子が悪くなる、突然、家の前に現れて立っていた

靴はクチがあいて、パカパカしたままで履いていた。
夏には、ステテコとシャツでどこへでも行った。

春日で物がなくて、食べていけないとなった時、
『下の(地元の)民家へ行って、おひつ開けてご飯を食べてきたらいい』
『そんなことで捕まったりしないから』

売店の前で『おいしいもの食べようか』と言って牛乳を一本買って、半分飲んでスット渡されて、ためらった、そうしたら『ぼくが飲んだら赤い血になるんやで』
『あんたは白いままかもしれへんで』

特講前に世話係で寄った人に『おかえりなさい、ごくろうさん』と一人一人に酒をついでまわって『遠いところからよく来たね』と声をかけて、和やかな雰囲気になった

『顔など洗っているヒマがありますか、戦争に』

春日山の人ですかと聞くと『ちがう』と答えた

明田正一さんをモデル会員第一号として紹介した

四国の島全体が理想社会になったら世界中に拡がる

『東京を好きにしたらいい』と言われて女三人で・・・

事件当時、東京で何かやることないかと聞いたら
『法務省へ行って、あの事件は事実と違うとハッキリ言うこと』
『目立つ格好をしていくように』

雑誌に事実と違うこと書いてあるから、抗議しようと言ったら
『そんなこと言うて行かん方がよい、書いてあるのやから、それが面白いのや』

知らない人が煮豆つくって煮えてなくて、すごく膨れて
『おいしいなあ、おいしいなあ』と言って食べた

後家さんが生活に困っていると話しているのを『そうかそうか』と聞いて
後から家にあった二斗の米を全部一輪車に乗せてそっくり届けた

仏さんに手を合わせて拝んでいたので、「そんなことしても何にもならへんでしょ」と言ったら、『そりゃあ、わからん』と言った

熊雄さんを連れ戻しに来た兄が、心配して来たと言ったら、
『ああ、自分のことね』と言われて訳が分からなかったようだった
それ以来、連れ戻そうとはしなくなった

財産放したのは、登記して名前が変っただけ、元々誰のものでもないわね。
タダの社会になるのやから、やっといてよかったね、と云われた。

家族で参画して来た時、『一歩遅れたら間に合わなかったヨ、使いものにならんかったヨ、よかったネ、あんたよく来たネ』
やりますよ、と云って、すぐ行く、『それでないと、使いものにならん』、と云われて、
おじいさんがごねて行かんと云ってしょうがなかった、と云ったら
『そんなもの、こんな楽しいとこないヨ、とでも何とでもいいから連れて来たら良いだけや』と云われた
ようやらん、というのは自分がやろうとしてないから、ということを云われたのかな?

あんたの財産くれる?と、そばに寄って来てすっと云った。
当時の特講では、そういう話は一切出していない。
主に一体研と怒り研だった。(共産党が無所有を嫌った)
言葉では出さなかったが、みんな財産を放してやって来た。

全人の・・・・全てそこから行なっている。
私という個人でないところから云っている。

1954年12月、世界革命実践の書、昭和29年、こせがれ泣くし飯焦げる、
12月に一人で稲刈りをしていた。

ご馳走が出されても、一切手をつけないで、そこらのゴボウの端切れをちょっと食べて、
『私はもう済みました』

よもぎのようなものを採ってきて、食べていた(食べるものがない)

人には本当にやさしかったが、自分に厳しい
お粥を炊いても、一寸しかないのに、どうぞどうぞと人にすすめた。
奥さんが食べるのを見たことがなかったが、ある時、釜を洗った汁を飲んでるのを見た。
のびるのおひたしとか、おつゆ一寸とかで、食はすませてた。

事件の時、警察がどんどん山へ上がって来る。
面白いなー、愉快で愉快でたまらん、と云ってネ。

やけどした時、痛いわ、痛いわ、面白いほど痛いわ。
愛情がいっぱいや、溢れるほどある、って云ってた。

この養鶏はゴミを卵に代えるんや

終戦後の稲づくり、丈が短くて丸い米

養鶏書は単なる養鶏の本でなく、子育てにも当てはまる

飼育係と技術係と両方なかったら出来んようになっていた。
分業でその通りやる。

戦争中など理想社会を人間社会ではムリと見て、せめて自由に研究出来るニワトリへ理想社会の縮図として現わした。(100%育成とか・・・)

名古屋は養鶏が盛んだった。山岸養鶏が出たとき、その養鶏家も脱帽したらしい。
そしてみんな寄って来て実顕地を生み出そうというところまで来て先生が亡くなった。

特講のあいさつで『一週間でわかると思いますが、わからん人はずーっと居て下さい』

誰かに、何か「してあげた」と言うたら
『えーっ、そういうのは、どこから出てくるの?』
『間違いなかったら、いいけど』(ヤマギシにはそういうのは無い筈だから)

よく働く人が良いのでなくて、毎日さかな釣って一日中ブラブラしている人。
あれが宝物や、あれと仲良ういけるようでなかったら理想社会ではない
自分を調べるといい、宝物やと云われた
(当時はお粥を食べてた頃で、怠け者の釣って来た魚なんか食べられんという人も居た)

苗代の種播きの仕方を見て、上に向けて種籾を放り投げたらよいのや、と一寸見てると急所がすぐ分かるらしい。理の方から見る・・?
田圃に入っても無駄な足跡は付けない、歩幅も理に合っていればそんなに歩かなくてもよい。すべてみんなと反対のことをする。

農業養鶏で300羽の鶏の純益と校長先生の給料と同じだった(当時、卵一個20〜30円)

映画を見にいって、突然ワーと泣く、一緒に行った人が恥ずかしいと云っていた。
何か感動的なシーンがあると・・・

島倉千代子の歌を聴いても、エーンと泣いて、「この世の花」を聴いても好きやと云って
春日の地元の家の人も先生がよく島倉千代子の歌を歌ってくれたと云ってた
(繊細な優しさ、鈍感でない、皆が泣いてる時はあまり泣かない、心の機微がすごい)

先生が面白いネ、楽しいな、と云うたのと、自分がそう思ったのと一緒かどうか判らん。

世界を舞台に同じことが、二度とない毎日だから、人生踊りしましょうよ、と云うてネ。
(心の世界を旅してたんやろうな)

このままで、そのままで、良いんやぜ−−。

奥村きみえさんは先生と一緒の席で『何か喋れ』と云われて何も言えなくてカチカチになってしまった時『何しに来た!』とどなられたのが頭にこびりついていて、今も先生のお墓に行くとそれを思い出して「ものわかりが悪くてすいません」と言う。

今、こんなことやってるけど(拡大したり、特講やったり)、色々な人が来る時代になったら又、百姓やな、すぐ変えるんやぜ−−

『通じないなあ、と思うと口が塞がって言葉が言えなくなる』

テープの喋り口調は標準語で真剣に喋っている、普段はもっと京都弁でやさしい口調だった。

今になると、もっと聴いておいたら良かったワ、と思うが当時は欲が浅かったり、自分が究めてないから、そういう聞き方しか出来んかった

考えてどうこうでない、どんどん湧いてきてしょうがないという感じだったネ

社会式養鶏=社会づくりそのものだった。そのための社会式養鶏。

3家族が心一つになったら社会になる、と云われた。
東山産業も3家族でやったが中味が違った、すごく儲けたが実顕地にならなかった。