< 小論 と 解説 >
一体観 (1996/2/8)

 一体とは一つの体という意味であるが、「一体である」と云う場合、それは個々の関係の状態のことで、離れようのない一つの関係であるという意味で「一体」という言葉を用いている。
 宇宙万物一体、自然全人一体、自他一体、というように、互いの関係を「一体」という言葉で表わしている。
 私たち人間は物事を認識する際、個々に培われ蓄えられた観念によって、それを捉えようとするから、物事の認識そのものが、その人の観念すなわち観方・考え方によって様々に変り得る。ここに万物一体、全人一体などと掲げても、人の観方によっては、物や人は個々別々にバラバラに存在するもので、一体とは言えないとする観方もあるだろう。

 一体の「体」は、「からだ」の意味で「身体」のことだろうが、一体とは人間や動物の生命体だけのことでなく、例えば生命体は各種の臓器・骨格その他によって身体という一つの体を形成しているわけで、各種の臓器は無数の細胞等によって臓器という一つの体を成しており、細胞はいろいろな要素が集まって細胞という一つの体を成している。これら一つの体はそれ単独の体を成しているのではなく、必ず何かの一体を構成する構成要素として存在している。
 自然現象と言われる雨や雪や風や気温の変化なども、いろいろな構成要素によって、その気象となって現れている。そして、それらの気象が何らかの別の気象の変化の要因になっている。他と無関係で単独に生じる気象などあり得ない。
 又、地球の歴史をさかのぼれば、空気も水もない石のかたまりのようなものであっただろうし、太陽なしには今のような地球はないだろうし、宇宙の歴史をさかのぼれば、地球とか太陽とかの区別も後に生まれたものだろうし、森羅万象、凡ゆるものが単独で存在しているものは何も無いのではなかろうか。
 一体とは以上のような物質的な面についてのみでなく、無形のもの、例えば知識とか経験とか技術とか心とか感情などについても同様のことが言えるのではないだろうか。
 或る人の知識とか感情について言う場合も、その人個人の知識とか感情であると見てしまいがちだが、その成り立ちを調べてみると、その人の知識や感情が他と無関係に単独で生じることは絶対にあり得ないだろう。いろいろな要素の集積で今日のその人の知識や感情があるのだろうし、その知識や感情は社会生活をしている人間として他の人に或いは社会に影響を及ぼさないものはないだろう。
 或る国や社会や他の人のことを言う場合、その国や社会や人が単独で存在しているものでないことを知るなれば、決して自分とは無関係のものだと思ったり、無関心になったり、他人事にしたりは出来ないだろう。
 物質的な面からも自分自身を含めた全ての物によって、この地球なり宇宙なりが一つの体を成しているのであろうし、無形の面についても全ての人の思い考え、知識経験、心や観念によって、このような世界となって現れているのではないだろうか。
 人間は地球上に突然涌いて出てきたのではなく、無生物から生物、原生動物などを経て今日にまで至った云わば末端の子孫とも云えるであろう。動物も植物も人間も人間が作った薬品や機械も、全てが地球の一部であり、宇宙の一部であるから、宇宙とか地球とか自然とか云う場合には、これら全てのものが含まれる。
 人間は地球の一部である。地球から生まれた地球の一構成要素である。又、自然という意味も一般には人為の加わらないものを「自然」という言葉で表現するが、人間も自然の一部であることを思えば、どこまでが自然で、どこからが自然でないなどとは厳密に言えないのではないだろうか。むしろ、凡ゆることが自然界のことであると言った方が的を得ているのかもしれない。
 先に述べたように私たちは物事を認識する際、自分の中に培われた観念で、物事を捉えようとするから、野性の動物や植物は自然であるといい、人間やペットや機械は自然ではないというような観方をすることが多い。自然保護とか地球環境という場合も、或る特定のものを指して地球環境とか自然とかと言っているようで、それ以外のものは地球環境とか自然のうちに入らないかの如く捉えているのではないだろうか。このような捉え方の良し悪しを言う前に、先ずこのように人間の観念によって地球や自然の捉え方がいろいろに変り得るということを押さえておきたい。地球や自然という事実・実態はそのままの存在であるが、人間の観念段階に於ては、地球とか自然とかと呼ばれる範囲や性格が随分変ってくる場合があるのである。