< 自由観 社会観 >
9.自由なる社会

 「真の自由はみんなの考えでやる中にある」というのは方法論ではなく、束縛・妨害されずに誰もが意志考え通りに行動できる、人間としての本質的な生き方であり考え方である。
 「みんなの考えでやる」という生き方・考え方は、旧来の社会通念を根本から覆すものがあるかも知れない。「みんなの考えでやる」人達による社会活動・社会生活への現れが、未だかつてない社会形態を齎すことは当然のことである。
 ここでは、今一度もう少し、「みんなの考えでやる」人による社会が、どのようなものであるかを描き易くするために、身近な例で解説しておこう。

 家庭での毎日の食事の献立を「みんなの考えでやる」ということを考えてみたら、どうだろうか。家族全員が毎日集まって自分の考えを出し合って決めなければならないのだろうか。普通、誰もそんな事を望まないだろう。おおよその事は、お母さんが決めてくれたらいい、というところで一致しているのではないだろうか。だからといって、お母さんが全権を握っているとか、他の意見を聴かなくてもよいということにはならないだろう。むしろ、みんなから献立を委されたお母さんは、みんなのことを考えて献立てするだろう。そして、誰でも希望があれば、その都度「こうしたらどうか」とか「これが食べたい」と言うだろうし、それを聴いたお母さんは、そういう希望を考慮して献立てするだろう。
 お母さんが用意したものをそのまま食べることも、誰かが食べたいと言ったものが出てきても、全員納得の献立であるといえるのではないだろうか。こんな事は、事細かに説明しなくとも家族の間柄なら当り前のことである。

 話は変るが、サッカーのチームプレーの場合はどうだろうか。選手一人一人が全体の動きを考慮しながら、同じ目標に向かってプレーをする。ここでも「自分だけの考えで行動する」ということはあり得ない。だからといって、みんなで集まって検討していてはプレーに成らない。一人一人がみんなのこと全体のことを考えて行動する。そして必要に応じて集まって検討したり確認したりする。この場合も「自分だけの考えでやる」のではないし、尚且つ「やらされる」というのもない。みんなのことを考え、同じ目標に則って一人一人が思いっきり自由に伸び伸びとプレーする。各自がどのように行動するかは、一人一人に委されている訳である。

 ここに挙げた、一家の食事の例もサッカーのチームプレーの例も「みんなの考えでやる」人による家庭でありチームであると云えるだろうし、このような家庭やチームでは「誰もがその人の思いや考え通りに行動できる状態」になっているのではないだろうか。こういう例から「みんなの考えでやる自由」「みんなの考えでやる社会」というものが描けてくると思う。
 そこで先ず、「みんなの考えでやる」為に最も重大な要素を挙げておこう。
 それは何かというと、
 「みんなの考えでやろうとする」ことである。
 人はみな一人一人、思いや考えや欲求や感情が違うものである。そういう個々に違いのある者が集まって、誰の考えも、どんな意見も洩らさずに、みんなの考えの一致点を見出して、それで行動していくのが、真の自由である。みんなの理解・納得・協力のもとに、誰にも邪魔されず、迷惑もかけずに、思いっきり伸び伸びと行動できるのが、真の自由である。
 旧来の自由観・常識観では、意見や考えが違ったら別離するもの、一緒にやれないものとの観念が根強くあると思う。十人十色、百人百様の思いや考えがある人間同志が、みんなの考えで一致点を見出して行動していくには、その根源基盤として「みんなの考えでやろうとする」人であることが絶対条件である。
 自分の考えを頑固に突っ張ったり、人の意見を無視したり叩いたり、自分と他とが対立する人は「みんなの考え」に至ることすら出来ない。誰の意見や考えをも尊重できなければ「みんなの考え」というものを手にすることも知ることも出来ない。だから、決して「みんなの考えでやる」ことは出来ない。

 「みんなの考えでやろうとする人」による社会は、暖かい和やかな家庭のようでもあり、心を一つにして各自が思いっきりプレーする力強いチームワークのようでもある。これは小規模少人数だから出来るというものでもない、少数でも突っ張り合って索漠とした雰囲気だってあり得る。やはり、そこに居る人が「みんなの考えでやろうとする人」であるか、否かが先決である。
 「みんなの考えでやろうとする人」による社会組織には、「みんなの考えでやる」社会機構が必要であり、その機構に則ってみんながやろうとするから、誰も邪魔されたり妨害されたりすることがなく、各自の自由意志で思いっきり伸び伸びと活動することが出来る。
 私どもは、このような「真に自由なる社会」を目指して、それを現実に具体化して社会生活を営んでいる。これは、旧来の常識社会とは一線を画するものであり、未だかつてない全く新しい社会形態である。