< 自由観 社会観 >
8.真の自由

 家族の中で、誰にも干渉されずに、勝手きままに自分の考えでやるのが自由か、それとも家族のみんなが納得して、理解と協力を得てやるのが自由か、果たしてどちらが自由だろう。どちらが「思いや考え通りに行動できる状態」だろう。よくよく考えて検べてみたい。
 他と関連なく自分だけの都合や考えで行動することを自由であるかのように、自由に対するイメージが出来上がっているのではないだろうか。それが本当に自由なのだろうか。

 例えば、どこかへ出かける場合、天気予報や道路状況や行き先の混雑ぐあい等を調べてから出かけるのと、自分だけの都合や考えで出かけるのと、どちらが自由だろうか。
 いろいろ調べてみると、日程や時刻や経路を変更したほうがよい場合もあるだろう、或いは行かない方がよいとなることもあるだろう。それとは逆に自分だけの考えで勝手に出かけると、思い通りにならないこともあるだろう。果たして、どちらが自由だろうか、どちらが不自由だろうか。
 また、座席などで指定席と自由席というのがある。この二つの分類は面白い呼び方だと思うが、果たして指定席と自由席と、どちらが自由だろうか。
 ここでも「自由」という言葉の意味するところを考えてみたい。自分だけの都合や考えで行動することを自由という意味に使っているのではないだろうか。実際には空いている席にしか座れないし、その為に早くから出かけて並んで順番待ちをしたり、時には座れないこともある。自分だけの都合や考えで行動しようとしても、必ずその場の状況に拘束されるのではないだろうか。他との関連の中に存在して生活しているのに、他と関連なく自分だけの都合や考えで行動することは、自由でなく不自由だと思う。
 指定席が自由で、自由席が不自由だと断定することは出来ないが、「自由とは何か」という観点から考えると、自由席で不自由な思いをし、指定席だからこそ自由に行ける、という様な例が多々あるのではないかと思う。

 このような、出かける場合の例や、座席の例のように日常生活では現実にやっていることではあるが、一般に人々の頭の中では、他と関連なく自分だけの都合や考えで行動するのが自由だとか、予め決められたものが何もないのが自由だとか、そういう自由に対する観念が無意識のうちにも出来上がってしまっているのではないかと思う。だから、自由時間とか自由行動とか自由席というように「自由」という言葉が用いられている。何も決められていないのが「自由」であるという勘違いになっているのではないだろうか。
 何も決められてなくて、自分だけの考えで行動するのは自由ではなくて、不自由だと思うが如何なものだろうか。みんなで相談して、或いはみんなが理解納得した仕組みに則って、「こうしよう」となったことをやるのが本当の自由ではないだろうか。
 「みんなの考えでやる」なんて面倒だし不自由だ、自分は自分のやりたいようにやるのが自由だと、これが今までの自由観だと思うが、果たして本当に自由なのはどちらだろうか。

 旧来の自由観では、「みんなの考えでやる」ということは、自分の考えではないことを「やらされる」という観念が相当あると思う。この観念を更に検べていくと、その人の行動の元は、「自分だけの考えでやる」か、そうでなければ他の考えで「やらされる」か、という二通りになるのではないだろうか。そして「自分だけの考えでやるのが自由」で、他の考えで「やらされるのは不自由」だとなる。では「みんなの考えでやる」のはどうかというと、それは自分だけの考えではないから、やらさられる方になる。だから「みんなの考えでやる」のは不自由だとなる。これが旧来の自由観である。

 ここで提案したいのが、「自分だけの考えでやる」でなく、しかも、他の考えで「やらされる」でもない、そういう行動の仕方があるということである。
 私どもは「みんなの考えを、自分の考えとして行動する」ことこそ、「真の自由」と云えるとしている。しかし、これを旧来の自由観で受け取ると、ちっとも自由そうに思えないかも知れない。そこで先の例を出して、具体的に解説しておこう。
 出かけようと思って、天気予報や道路情報や行き先の混雑ぐあい等を調べみると、その時点での結論が出る。それは調べる前の自分の考えとは異なっている場合もあるだろう。調べる前は今日行こうと思っていたが、調べてみると明日にしようとか、或いはそこへ行くのは止めよう、という場合もあるだろう。こんな事はよくある事だが、調べる前の「自分だけの考えで行動する」のではなく、天気や道路や行き先の情報が加わって、その一致点で行動する。そこには「やらされる」という不自由感はない。

 「みんなの考え」というのは、その中には当然「自分の考え」も入っているということである。「みんなの考え」という時に、何か他の考えで「やらされる」と思っているのは、「みんなの考え」と「自分の考え」が遊離した状態、つまり自分以外の他の人達の考えだと思っているのではないだろうか。
 先の例のように、天気や道路や行き先の情報を寄せて検討して得られた結論は、最初に今日出かけようとしていた「自分の考え」とは全く異なる場合がある。しかし、その「自分の考え」も入った上で検討した結論であるから、天気や道路のおかげで止めさせられたとは思わないだろう。
 「みんなの考えでやる」というのは、「自分の考え」も「みんなの考え」も出し合って検討して、「こうしよう」という一致点を見出して行動することである。
 「社会機構」のところで述べたことを再度引用するが、誰のどんな意見をも洩らさず聞きとり、全員の意見を集めた上で最上の結論を見出しての全員の納得による社会運営であるから、多数決制度で押し切ったり、押し切られて不愉快な思いをする人もなくなる。これが「みんなの考えでやる」社会であり、これによってこそ「真の自由・誰もがその人の思いや考え通りに行動できる状態」と云えるだろう。
 「みんなの考えでやる」ということは、どこまでいっても、自分自身の意志で「みんなの考えでやる」のだから、「やらされる」とは全く異なる。そして「みんなの考え」とは誰の考えも無駄にしない、個々の意志や考えを最も尊重するものである。個々の意志や考えの尊重を欠いた状態での「みんなの考え」などというものははあり得ない。
 人間は一人では生きられない、個人だけの隔絶された単独の自由などあり得ない、との原則から来る「真の自由はみんなの考えでやる中にある」ということの意味するものは非常に奥が深いと思う。旧来の常識観・先入主観を外して考えないと、この意義の大きさが捉えられないだろう。