< 自由観 社会観 >
7.自由観・平等観

 自由と平等は人間幸福の条件要素として重要欠くこと出来ないものである。そこで今改めて自由と平等について考えてみたい。
 自由・平等は人間の幸福を充たすものである筈だが、意外にもその事が忘れられて、自由や平等が独り歩きして、幸福とは逆の誤った方向へ進んでいることもあろうかと思う。例えば、自由を強調することで他に迷惑が及んだり、わがままや勝手気ままな人が増えたりするというのは如何なものだろう。平等を叫びながらも、画一的で殺風景な姿に充たされないものを感じたりするのは如何なものだろう。このような理由から、少しくらいの不自由は当然とか、それ位は我慢しなければ社会秩序が保たれたいということになる。また、個人の意志や個性を尊重すべきだから、能力や働き如何によって貧富の差や不平等が生じてもやむを得ないということになる。
 これらは何れも誤った自由観・平等観から来るものである。だから、その誤った自由や平等を突き進めると迷惑が及んだり殺風景で味気ないものになったりする。冷静に考えてみれば、幸福条件である筈の自由・平等が行きすぎて、人間や社会に悪い事態を引き起こすということなど全く滑稽な話である。今こそ人類幸福に叶った正しい自由観・幸福観を見出して、本当の自由・平等を実現していきたいものである。
 繰り返して述べるが、今までの自由や平等に対する常識観をそのままにして、いくら自由・平等を叫んでも、それを突き進めれば本当に自由に成るのか、平等が得られるのか、と見直し考え直さなければ、誰もが希っている本当の自由・平等はいつまでたっても訪れないだろう。

 自由・平等の定義は至極簡潔である。「誰もがその人の思いや考え通りに行動できる状態」と云えるだろう。思いや考えには個人差があるから、同一の状態では自由・平等は充たされないことは当然のことである。
 社会環境については「社会機構」のところで述べたことと重複するが、繰り返しておくと、一人も我慢したり辛抱したりせず、奪い合う必要も無いように、あり余るほど豊かにし、誰もが必要に応じて得られる仕組みにすることである。そして、誰のどんな意見をも洩らさず聞きとり、全員の意見を集めた上で最上の結論を見出しての全員の納得による社会運営である。
 しかし、ここで掲げたことも今までの社会通念から観ると、そんなことではとても混乱して社会が成り立たないと云う人がいるだろう。それは紛れもなく、旧来の自由観・平等観を持ち続けているからである。おそらく、多くの人がこのような社会機構で誰もが自由・平等に暮らせれば良いと思うことだろう。果たして、それは無理無茶な話なのかどうか、考えて頂きたい。
 ここに述べたように何の束縛もなく飽きる程豊満にすることによって、混乱が起こり社会が成り立たないとしたら、人間とは余程低能で愚かな動物であると諦めねばなるまい。
 しかし、人間には優れた知能がある、人間は考えられる動物である。自分の思い考えや欲することが本当に希っている方向と合致するかどうかを考えることができる。本当に希っている方向に考え行なおうとするから、自ずと欲求もみなその方向に則ったものを欲するようになる。当り前のことだが、本当に希っているものを得ようとし、得られるように考え行動するのが知性ある人間の姿である。
 自分が考え行なおうしていることが、自分を含めた皆の幸福・繁栄に資するものであるかどうか、日常の暮らし全てが、みんなにとってどうかと考え行なう生活となっていく。これは何も難しいことでも高尚なことでもない。当り前の極自然な姿である。
 自分だけの考えでは、どうか分らないことも多いから、絶えずみんなと相談しながら考え行なっていく。自分の考えをみんなにはかってみると、みんなの考えが最初の自分の考えと違うこともあるだろうし、そういう場合でも、今はその方が良いらしい、その方が良さそうだと、みんなにとって一番良さそうな考えで行動していける。
 社会環境には一切の制約や束縛をなくし、自他の繁栄を心から希う一人一人からの自発的で自由な意志で行動する。こういう社会や人の間には、独断とか独走とか、我慢や諦めなど、あり得ない。誰も自由を妨げないし、妨げられない。どんな機会をも誰もが同じ条件で得られる社会である。
 旧来の自由観・平等観をそのままにして、多くの制約・束縛のなかで小さく狭く自分だけの限られた欲求を充たして良しとするか、広大無辺の豊満快適な真の自由・平等を実現さすか、百八十度正反対の生き方である。