< 自由観 社会観 >
6.知性的に生きるのが人間である

 人間にとって最も快適で豊かな暮らしは、疑い、睨み合い、競争や対立などがあっては決して実現出来ないだろう。人は元々、全く見ず知らずの人と仲が悪いということなどあり得ないもので、反目とか競争というものは、近隣とか同業など関わり深い人との間に生じる誠に不思議な感情である。
 人間には他の動物にはない高い優れた知能がある。人間は人間として、人間が最もよく生きられるよう、この知能を最大に活用すべきである。これまで当然としてきた欲求や観念や社会気風などを、人間の知能によって知的に考察して、如何にすれば全人類の幸福を現実のものとし得るかを見出して、真面目に真剣に実践したいものである。
 他の動物たちを見るに、天変地異による様々な環境変化は受けるだろうが、自ら嘆き悲しんだり、混雑や衝突に苦しみ、縛り縛られ不愉快な思いをすることなど無いようである。むしろ何ものにも縛られず、自由に快適に伸び伸びと暮らしているのが殆どではないだろうか。高い知能を具えた人類こそ、最も高い充実した人生や社会を営み得ることは当然のことだと思う。
 自分だけ或いは限られた範囲の人だけ幸福になろうとしても、絶対不可能である。これは近い周囲のみに限らず、世界全体に切れ目なく繋がっている事実からして、隔絶された時間や空間はなく、遠く離れた一人の不幸も必ず何かで自分にも影響がある事実を認識する必要がある。自分だけの幸福、自分たちだけの幸福が得られたと思っても、それは思っているに過ぎない一時的なものである。ましてや、マイホーム主義や立身出世や自国優先の国策では、本当の幸福人生や幸福社会は到底望めそうもないだろう。
 他が良くなり、全体が栄えてこそ、我が身の安泰も保証されるのである。
 このような事は古くから云い尽くされていることだろう。
 人は一人では生きられない、この地球上に住む全ての人類はみな人間同属である。不要な観念さえ植え付かなければ、人はみな同属愛に充ちて、力を合わせて共に生きるのが人間というものである。
 最初の項に掲げた「自分のみの近道を行おうとする」ことが、混雑や衝突の根本的原因であるというのを思い出して頂きたい。おそらく誰もが、混雑や衝突や争いを好まないであろう。人間が欲するままに行動することと、混雑や衝突や争いが起きることを、当然の如く結びつけているが、これは何か決めつけた観念による偏見だと思う。
 「われ先に」と欲することが、いろいろな問題の根本原因である。
 他を愛し、自らの住む社会全体を愛すればこそ、「人と共に」を欲するものである。
 自らの幸福と繁栄を欲すればこそ、「われ先に」という欲求は起こりようがない。
 他が良くなり、全体が栄えてこそ、自らの本当の幸福が得られるのであるから、全ての人の知恵と力を合わせて、共にこれを実現しようとするものである。

 それには、今日まで永年に渡って当然とされてきた欲求や観念を、常識や道徳や知識・経験に捉われずに、根本的に見直すべきである。何故なら、あたかも人間の欲望が人間を不幸に至らしめるかの如く錯覚していることが甚だ多いのではないか。人間にとって即ち自分自身にとって好ましくないことを欲求するなど、正常な人間にはあり得ないことである。例えば、目的地に早く着くためにマイカーで行きたいと思っていたが、道路が大渋滞でいつ到着できるか分らない、電車の方が早く確実に目的地に着ける、となれば即座に欲求は電車で行く方へ移っていくだろう。
 「自分のみの近道を行おうとする」ことは、永遠に欲するものが得られない行き詰まりの道である。それを近道だと錯覚しているだけのことであって、今こそ皆と共に本当の近道を知る時である。
 要は、人類にとって即ち私自身にとって、望んでいること希っているものが、どうすれば得られるかを知的に探究し、具体的に確実にそれを実現することである。
 今ある、欲求や観念や感覚に頼ることなく、それらが真に望んでいること願っているものに合致しているか否かを検べてみれば、もしも欲求や観念などが望んでいることとは逆方向であれば、それを発見できるだろう。
 この実践こそが、人類の限りない幸福と繁栄を現実に実現するものであることを、私どもは確信する。絶えず皆の知能を用いて、自分を含めた社会全体の幸福・繁栄への欲求・観念・感覚であるかどうかを検べ、それに則して共に考え行動していくことである。
 人間としての最大の特質である知能を、最も有効に活用して、皆が希っている方向へ、願っている方向へと、検べ考え共に行なっていこうとする、人間のみが成し得る知性的な生き方である。