< 自由観 社会観 >
5.金の要らない社会

 これまでに述べてきたように、法律や規則で縛ったり、競争意識や対立意識があったり、契約や約束が要るなど、誰にも分る今日の社会のあり方や人々の考え方について、根本的に考え直して、全く新しい観方に立つことを提案したいと念うものである。
 人間性の本質や人と人との社会的繋がりの根元から、人間としての生き方や社会のあり方を固定観念を外して素直に検べてみると、規則・罰則、競争・対立、契約・約束など、無くてよいものばかりではないだろうか。元々どこにも無かった筈のこれらのものを人間が勝手に作り出して、人間自身を縛ったり不自由にしたり不愉快な思いに着き纏われているのではないだろうか。このような本来の人間性には不要なものは人間自身の力で容易に払拭解消できると思うが、如何なものだろう。
 本来の人間性に立脚した社会の最も顕著な姿が「金の要らない社会」である。
 私どもは「金の要らない社会」の実現を確信し、これを全世界の人々に呼びかけ、既に実行に着手し、実現しつつある。「金の要らない社会」というと原始時代の未発達な社会のことかと思う人もあるかもしれないが、ここに云う「金の要らない社会」とは、真の人間性に立脚した最も進歩的な未だかつてない新しい社会である。
 そこでは、今日までの社会で行なわれている殆どの現実が、根本的に変ることで、人倫・道徳・経済・社会・政治機構等も形質共に大転換される事は当然であり、権利・義務・規則・罰則・監視・契約・犠牲・奉仕・所有・対立・競争など、人間に不要なものは一切混じらない社会が実現する。
 今こそ「金の要る社会」と「金の要らない社会」の根本的な異いを、よく考えてみて頂きたいものである。本当に仲むつまじい間柄には金銭の授受は不要である。金は水くさい存在である。金銭の授受が必要ということは、そういう間柄であることを意味する。
 人間は一人では生きられない。皆が寄ってそれぞれに持ち場を得て、能力に応じた働きをして、そうした全ての人の働きよって個人の生活が支えられている。誰一人とっても、まさに貴方なしでは生きていけないということである。それ程、密接不離の間柄にありながら、お互いの間に金や契約が要るということは、何か別の観念が植え付けられて邪魔をしているのだと思う。
 通常、毎日何時間か働いていて、その働くという行為の殆どが自分以外の他の人に何かを齎す行為である。しかし、そこに報酬とか金銭が介在することで、あたかもその報酬や金銭のために働いているかの如く思い込んでしまう。事実、今の社会では、多くの人がそういう意識での働きになっているのではないだろうか。
 例えば、生産された品物が売った先で火災に遭って焼けてしまった場合、生産者は代金が回収してあれば何も傷むことなく、未回収であればその代金が回収できるか否かを案ずる。本来の生産者としたら、精魂込めて作ったものが活かされなかった事に心傷むだろう。そういう心も残っているだろうが、現実的には金銭問題に主眼をおき、みな働き動き回っているのではないだろうか。
 報酬や金銭が介在しなければ、物を生産する人はそれを使う人の為の働きであり、何かを運ぶ人はそれを必要としている人の為に働いているのであり、ただ純粋にそれだけである。自分の収入のため、自分の報酬や金のためと思って働くことによって、その働きそのものが不純になっていくように思うがどうだだろう。
 人はみな、人それぞれに各自の能力に応じた働きで全ての人に何かを齎していく。必要なものは何時でも必要なだけ、自由に労せずに得られる仕組みにして、金で買ったり個々に囲ったりしなくてもよい社会、齎し齎されての暮らし、贈り合い齎し合いの社会が本当だと私どもは思うがどうだろう。