< 自由観 社会観 >
4.人間愛を基調にした社会

 人が人として生きていく上で、最も大切だと思われることがある。それは、「他が良くならないと、自分も良くならない」「自分だけ良くなることは出来ない」ということである。しかし、現代の社会では、このことをどれだけの人が実感しているだろうか。逆に、これに反した考え方が圧倒的に多いのではないかと思われる。極端な例では、「他が悪くなった方が自分には良い」「他が良くなったら自分が良くなれない」とさえ思っている人も居るくらいだ。だから、こんなにも国家個々人主義や個人生活・核家族生活が当り前のものとなっているのだろう。
 他の人や周囲のことも大事だが、何をさておいても「先ず自分のところを」という考えが蔓延しているのである。こういう考えは周囲や社会が不安定になればなる程、ますます強くなる。周囲や社会に良くないことが起こると、より一層、自分を守ろう、自分のところだけは被害をこうむらないようにしよう、と考え行動する。こういう考えが社会全体に広まって、自分のことは自分で守る、自分は自分、人は人、誰もが先ず自分を守ろうとするようになっていく。
 こうなると、仕事や暮らし、教育や政治、道路も交通機関も、人との交際も、どれをとっても「先ず自分のところを」と考え行動する。自分のため、自分の家族のため、自分の会社のため、自分の組織のため、自分の地域のため、自分の国のため、などと自己優先の考え方が個人生活から国の行政に至るまでことごとく及んでいるから、さも当然の如く思っているのだろう。しかし、この考え方でどこまで拡大延長させても、そこには厳然と自他の隔てが存在し、自分を自国をと、他より自己を優先するから、他と心から打ち溶けることが出来ないだろう。何かにつけて、自分のところにとって都合が良いか悪いか、を基準にして物事を判断していく。だから、自他の間に利害が生じる、利害の反する相手が存在することになる。このことさえも今の社会通念では当り前のこととされている。例えば、全人類が自分の家族であれば、少なくとも人と人の間に利害の対立などは発生しようがない筈である。
 このように、これまでの社会では、人と人の利害は一致しないもの、利害対立はあるのが当然という前提のもとに営まれると云っても過言ではないだろう。個々の利害は一致しないという人間関係は、表面には現れていないように見えても、その元は対立関係である。たとえ協調とか協力とかの関係を築けたとしても、それは利害の一致している間のことであって、人と人は自他を隔てて対するものであるという根本的な人間関係は変らない。
 ここで必要となるのが契約や約束である。対する者同士が一致して活動するには、契約や約束が必要となる。現代社会はその典型である。前項では今の社会を規則罰則の要る社会とか競争社会として採りあげたが、それと同時に、まさに契約の要る人間関係であり、契約社会である。これを読まれている方の場合も、ご自分と周囲の人との関係は果たしてどのようなものだろうか、契約の要る関係にある人と、要らない人とに分けられるかもしれない。
 これまでに述べたように、契約社会の元をなすのは、契約の要る人間関係であるが、更にこの人間関係の元にあるものは、と辿ってみて判るのは、そこに疑いや不審があると云うことである。現実に、今の人間関係の全てに契約が要る訳ではないだろう。そこで契約の要る関係と要らない関係の違いを検べてみては如何なものだろう。
 夫婦の間に、また家族の間に契約が要るとしたら、正常な夫婦とか家族とは云えないと思うがどうだろうか。契約というものは、それが守られなかった時には何らかの罰則がつきものであるから、前項に掲げた法律・規則などと同質のものだと云えるだろう。
 契約があるから、だましたり、裏切ったり、出来ないと云う。それがあるから社会秩序や人間関係が保たれていると云う。しかし、その実は契約が無ければ、だましたり裏切ったりするような関係なのである。そういう人間関係をそのままにして、だましたり裏切ったり、出来ないように契約で縛っているだけのことである。契約が無ければ乱れる社会や人間関係は、どう考えても正常とは云えない、偽りの社会であり、嘘の人間関係である。

 私は、契約や掟の要らない社会全人の心が繋がる、家族のような社会であることが、血の通った本当の人間の姿であると思う。家族の中なら、自分だけ良くなろうと思っても成らないし、また自分だけ良くなろうなどと、思わないだろう。
 何も、奇篤な精神の持ち主とか、よほど心のできた人でなければならない、というものでなく、誰にでもある家族愛とか親愛の情というものである。それが、いつの間にか損得勘定やら利害対立意識が植え付けられて、殆どの人を他人と見做して疑い深く接するのが当然かの如く観念づけられているから、人と人の間に本来的に通い合う筈の情が掻き消されてしまっているのだろう。まさに「情なんて当てにならない、契約の方が当てになる」と云わんばかりである。
 契約があるから、契約したことだから、としての行為ほど無味乾燥で殺風景なものはない。もしも、母親が契約で赤ん坊を生み育てたとしたら、どんな子どもが育つのだろうか。約束したとかしないとか、見返りがあるとかないとか、そんなことに関係なく本当にその人の心からなる行為一色の人間社会であれば、どんなに心豊かで素晴らしいことだろう。
 ここに述べたことも、前項に掲げた規則や罰則と同じように、契約がなかったら社会が成り立たない、混乱すると考える人が多いのではないだろうか。しかし、そういう既成の観念を今一度棚上げして、契約など全くなくても皆が仲良く楽しく円滑に営まれる社会を描いてみて頂きたいものである。
 そして、とても不可能だと思う人は、なぜ家族の間柄なら契約などなくても行けるのに、不可能だと思うのか、よく検べて頂きたいものである。私どもは、そういう社会の方がよいと思うのだが、これを嫌う人が居るだろうか。