< 自由観 社会観 >
3.真の人間向きの社会機構

 先にも述べたように、これまでの人間社会は法律や規則が多すぎて、どこを見渡しても法律や規則だらけである。こんなにもしなければ円滑な人間社会が営まれないのだろうか。また果たして、法律や規則で取り締まれば、円滑で快適な社会が実現するのだろうか。
 人間社会を営む上で、規則や罰則、或いは監視が要るということは、どこかおかしいのではないだろうか。
 ここでは規則や罰則の要らない社会というものを、機構・制度の面から考えてみたい。
 これまでの社会は、「われ先に」とか「われ関せず」の人を生み、そういう生き方を助長する機構制度であると云えるのではないだろうか。だから、混雑や衝突が起こり、法律や規則・罰則が必要となる、つまり規則・罰則の要る機構制度なのではないだろうか。

 規則や罰則は、飴と鞭で動物に芸を仕込むようなものではないだろうか。これをしたら鞭打たれる、だからしない、というのと同じようなものだ。例えば、これを破ったら罰金が科せられるから、と取り締まりを恐れてそれに従うのである。何とも動物向きの機構制度と云えるのではないだろうか。これをやったら飴で、あれをやったら鞭だから、これをやり、あれをやらない、とは何とも人間としてお粗末な姿である。
 個々別々に思い思いに、損だとか得だとか、利害の対立だとか、云っているが、何が損で、何が得か、利害とは何か、社会的にハッキリと指し示すことが大事だと思う。
 他の人にとって良いことは、社会にとって良いことであり、社会にとって良いことは当然自分とっても良いことである。この理をハッキリと分るように社会機構を整えることである。そうすれば、利害が対立するなどということはあり得ない。
 例えば、自分が苦労して作ったものを自分だけで使うのは損である。多くの人に使われることこそ得である。自分だけの狭い範囲に囲って使うのは自分にとっての損ばかりか、社会人類全体にとって損である。
 この例一つとって見ても、社会機構を誤れば全く逆の考え方となる。自分が作ったものを人に使われるのが損だという考えにさえ陥ってしまうのである。こういう損得勘定と利害の対立意識がはびこって、人も組織も閉鎖的になっているのは、まさに社会機構の欠陥と云うべきであろう。
 現代社会は競争社会とも呼ばれるように、他より勝ることが良いとされているから、その裏には必ず敗者がいる訳である。選挙も受験も生産品も勝つことが自分にとってプラスであり、負けることがマイナスであるから、誰もが勝つことを考え行動する。これも勝ち負けという価値観を植え付ける社会機構によるところが大きい。
 社会全体にとって、或いは自分にとって、マイナスになるような行為は誰もしたくないだろうから、どういう行為がプラスで、どういう行為がマイナスであるか、誰にもよく分る機構制度を確立したいものである。

 また、犯罪に対して刑罰というものがあるが、刑罰では犯罪は無くならない。先の罰則のように、刑罰を恐れて犯罪をしないという事はあるかもしれないが、犯罪に対して刑罰を科しても、犯罪の解決にはならない。
 何か、事件や事故が起こると、それが誰の罪なのかを決めつけなければ気が済まないという今日の社会である。そして、その罪人が決まると、その人が相応の罰を負うことになる。それで、一件落着だとしている。今の社会制度は罪人を決めることと、罰の大きさを決めることに多大な労力を費やしている。このような社会制度では事件や事故のない社会は決して出来ないと思うが如何なものだろうか。
 事件や事故が起きた原因を追究しないで、罪人と刑罰で処理する方式では何の解決にもならない。犯人を逮捕して事件が解決したかの如く思い込むのは、もっての外である。
 事件や事故が起きた原因を具さに検べてみると、それは事件や事故を起こさした社会全体に原因があると云えるだろう。刑罰を科する人を捜すよりも、その根本的原因を見つけ出して取り除くことにのみ、力を傾ける社会機構でなければ、決して事件や事故は無くならない。

 私どもは、規則・罰則・監視の要らない社会を提唱し、実現せんとしている。不透明で暗い間道を、思い思いの灯りを頼りに、細々と手探りで歩む行き方ではなく、誰にも分りやすい明るい大道を、活発に前進する社会設計である。
 どうすることが、自他共によくなることかをハッキリと指し示す社会機構であり、それに最も力を注ぐ社会運営である。そして自他共に社会全体がよくなる方法や方式を設けて、何れの方法や方式を採るかは各人の自由意志に委し、各自が自力で歩くなり乗るなりして、思い思いの目的に向かって、自由に快速な行動が出来るよう道路や道標や乗り物を正備する。
 たとえ、利己的な行為をする人や犯罪者があったとしても、それが社会に広まることなく、原因を探究し根を断つ方へ力を注ぎ、それよりも他を栄えさし社会に貢献する人が伸び行くような気風を醸し出す社会機構とし、その方向へその方向へと心して活動することで、間違い事は自然消滅し、原因の根が断たれるである。
 物質経済や生活環境に於ては、競争に費やしている労力を方向転換して、一人も我慢したり辛抱したりせず、奪い合う必要も無いように、あり余るほど豊かにし、誰もが必要に応じて得られる仕組みにすることである。そして、誰のどんな意見をも洩らさず聞きとり、全員の意見を集めた上で最上の結論を見出しての全員の納得による社会運営であるから、多数決制度で押し切ったり、押し切られて不愉快な思いをする人もなくなる。
 このような社会は、索漠とした今日の社会風潮から見ると、とても叶わぬ絵空事のように聴こえるかもしれないが、それは、規則や罰則、勝ち負け感や競争意識に左右されて行動する社会形態しか知らないからではないだろうか。罰則も競争もない和気靄々の社会というものを本気で考えてみて頂きたいものである。