< 自由観 社会観 >
2.人間は社会的動物である

 人間に生ずる欲求と一言で云っても、それは個々さまざまであり、これだけあれば充たされているとか、不自由を感じないとか、一概に論じ得ないものである。そして、欲求と云っても本能的なものと、観念的なものがあり、欲求を充たせば幸せになれるかと云えば必ずしもそうではなく、特に観念的に歪められた欲求の場合、その欲求を充たすことが他を侵すことになったり、自ら命とりになる場合もあるだろう。
 おなかが空いているのに食欲がなかったり、腹いっぱいなのに食べたいと思ったり、これらがみな観念的欲求とは決めつけられないが、欲求そのものを検べないと、欲求を充たせば良いとは云えない事が多々ある。
 或いは、瀕死の重傷患者が水を欲するのは決して観念的なものでなく、おそらく本能的欲求であろうが、医学的立場から生命を救うという見地からすれば、水を与えない方がよいという場合もあるだろう。
 誰もが、その個々に生ずる欲求を存分に充たすことが出来るということが、自由であり、平等である、と云ってよいだろう。しかし、その欲求が他を侵したり社会を乱すようなものであるなら、当人の自由も他の人の自由も充たされないだろう。
 今日までの人間社会を見てみると、これらの欲求についての検討がなされないまま、欲求については野放しにしておいて、その欲求を充たそうとする行為を法律や規則で縛る方式を採っている。
 個々の欲求や願望や意志や思い考えが、正常で健康的なものであるならば、決して法律や規則で制限したり縛ったりする必要が無いと思うが如何なものだろう。
 全ての人の欲求が存分に充たされて、且つ誰にも迷惑をかけないし、他を侵すこともないのが、理想であると云えるだろう。この理想は実現できないようなものなのだろうか。
 どういう事が迷惑や他を侵す事なのか、それは慎重に検討する必要があるが、少なくとも、他を侵したり迷惑・混雑・衝突をあえて望む人は居ないだろう。
 人は他の迷惑や混雑や衝突を望んだり欲したりしないのが当然ではないだろうか。しかし良かれと思っての行為の中にも、一見、何も他に害を及ぼしていないような事でも、気付かぬうちに自然や環境を汚染しているという例も、よくあることだから、各々の欲求や願望や行為が正常で健康的なものであるか、絶えず検討する必要がある。今日の社会ではこの検討を怠っているのではないだろうか。

 人間は一人では生きられないものである。これは周知の事実であろう。にも関わらず、一人で生きられるかの如く、個人生活や核家族生活を当然とし、自他の隔てを設けて平然と暮らしている今日の社会風潮である。
 生活上のゴミの扱い一つとって見ても、電車の乗り降りを見ても、みんながやっていることだから何とも思わない不感症になっているが、これこそ混雑・迷惑・衝突の見本のようなものである。自分の要らないものは捨てる、他より先に行こうとする、これはまさに人間としての正常で健康的な欲求や行為とは逆行するものである。
 これら何気ない日常生活の中に、自分さえ良ければよい、自分のみを優先する、強いもの勝ち、早いもの勝ち、などの考え方が社会常識となって根強くはびこっている。誰もそれでおかしいと思わないし、誰にもある当然の欲求だとしている。
 このような不正常な欲求をそのままにしておいて、道徳的に縛ろうとしたり、秩序を保とうとするから、法律や規則が必要になってくる。一人では生きられない人間が、他を顧みないで「自分のみの近道を行おうとする」ことは、既に狂いから来る間違いであり、非人間的な獣的習性とも云うべきものであろう。

 また、個々それぞれに囲いを設けて他を入れないようにしている。自分の敷地を占有して力の強いものが多くを所有し、他には使わせない。囲いの外へ自分は自由に出入りするが、囲いの中に他を入れない。自分が多くを持って囲っていて、他の人が少なく貧しくても、何とも思わない。平然としていられる。他を侵し迷惑を及ぼしているとは思っていない。これは個々人に限ったことではなく、組織であっても、国であっても同じことである。
 人間だけを例にとってみても、同じ地球上に共に生きて居りながら、自分たちだけ占有して貧しい人を看過するようなことは、人間としてとても出来ないことではないだろうか。
 自分の欲求が充たされていると思っても、他に充たされない人が居るということは、いつなんどき、その立場が逆転するか分らないだろう。自分さえ充たされればよい等とは思っていなくとも、現実にそのような行為を繰り返しているならば、迷惑・混雑・衝突を肯定し助長しているのも同じだと思う。

 社会とは人間一人一人の集まりであり、個人と別のものではない。個人は社会と離れて、社会なしで生きられるものではない。その理を知るなれば、社会の中の個人、社会を構成する個人として生きる。つまり社会的に生きることが人間としての当然の姿であろう。
 社会的に生きるということは、人と共に生きるということである。今一度この「社会的に生きる」「人と共に生きる」とはどういうことか、とじっくりと考えてみたい。社会とは人間社会のことである。限られた範囲での特定の地域や国や人種だけで成り立つ社会など無い筈である。世界全人を対象にした社会である。「共に生きる」とは皆が同胞ということである。地球上の全ての人が同属である。敵とか無関係の人など一人も居ないのである。
 この大原則に立って、「社会的に生きる」「人と共に生きる」とはどういうことか、と考え直すことが、今日の急務である。今日の社会常識や合法的に良いとされている事でも、この大原則に立って観ると、人間としてあるまじき行為が多々行われていると思う。自由競争などと云って、優勝劣敗を当然のこととしているが、これで人みな快適に暮らせる社会になるだろうか。社会を構成し共に生きる人間としての正常で健康的な生き方を、根本から明らかにしておきたいものである。
 一人では生きられない社会動物とも云える人間としての当然の姿や、正常な欲求や行為を見定めることこそ本質的課題であり、これが最も急がれるのである。ここに云う正常で健康的な欲求や行為というものを見定めることにより、困窮していると云われる現代社会の数々の問題は容易に氷解するであろう。