< 自由観 社会観 >
1.人間には自由欲求がある

人は誰もが楽しく豊かに快適に暮らしたいのではないだろうか。それを求めて物質的にも精神的にも、充たされることを願って日々活動していることだろう。
 しかし、欲するものを得ようと、いくら一人で頑張っても、衝突したり混雑したりで、思うように得られない。各自で工夫をこらして、欲するものを得ようとするが、自分の欲求のみを充たそうとしても、なかなか充たされない。
 誰もが欲するものを得ようとすればする程、衝突や混雑や迷惑が生じるから、それを解消するために、いろいろな決まりを作る。それが、法律や規則である。
 法律や規則は、欲するものを充たす為のものではなく、混雑や衝突を避ける為のものである。
 混雑や衝突や迷惑の原因を究明しないで、それの解消を図ろうとするのが、法律や規則である。法律や規則でいくら取り締まっても、混雑や衝突や迷惑の原因は無くならない。それどころか、却って逆に法律や規則の網の目をくぐる事を考えるから、そこでは又、混雑や衝突や迷惑が生じる。そして又、それを取り締まる為にどんどん法律や規則が増えていく。
 人間に生じる自由なる欲求や願望を叶える為に活動をしている筈なのに、いつの間にか法律や規則で縛り合う暮らしに染まっている。どこを見ても法律や規則だらけの社会である。しかも、それを誰もおかしいとも思わない。法律や規則がないと、いろいろな問題が起こるから当然必要だとしている。何故、問題が起こるのかの原因を突き止めないで、縛ったり押さえたりすることで、良しとしている。
 人間がしたいのは欲求を充たすことであり、法律や規則で縛ることではない筈である。
 欲求が充たされる方法を考えないで、混雑や衝突を避ける方法に終始している。
 何故、混雑や衝突が起きるのか。その原因をハッキリと掴むことである。
 混雑や衝突の原因は、「自分のみの近道を行おうとする」ことにある。
 欲求を制限したり、法律や規則で縛るのは、この混雑や衝突の原因を知らないからである。このことは裏を返せば、「自分のみの近道を行おうとしなければ、法律や規則は要らない。」ということを意味している。
 何ものにも縛られず、誰もが楽しく豊かに快適に暮らしていくために、様々な欲求があり、それを存分に充たしていけるよう活動するのが、本当の人間の姿ではないだろうか。人間が人間自身の欲求を充たそうとしていながら、充たされず、逆に人間自らを縛る法律や規則を絶対必要であるかの如く観念づけているのは、如何にも愚かとしか云いようがない。
 前述したように、「自分のみの近道を行おうとする」という原因を取り除くだけのことだが、そんなに難しいことだろうか。高い知能を持つ人間なら、こんなこと位はたやすく出来ると思うが如何なものだろう。