< 宗教から研鑽へ >
9.宗教(信じる 固定)から、研鑽(信じない 無固定)へ

『自然科学にしても、人文科学にしても、その科学する態度について、研鑽方式による場合、従来の学界或いは、社会、人間界に於て、とって来た究明方法とは画期的な相違があり、正しいあり方、進歩的あり方への偉大な効果をあげ得ることである。』
『超人間的な人が究明して会得したものであるから、一般人間の知惠では容易に理解出来ないだろうとし、幾多の立証すべき事実があるから、間違いないと決めつけるものでも、研鑽してみると、容易にその盲点を検出することが出来る。』

 

 「これが正しいのだ」とするのか、「どれが正しいのか」とするのか、そこに根本的な違いがあると前に述べた。
 今日までの人々の生活や社会を見てみると、「どれが正しいのか」と検べる面もあるだろうが、大勢は「これが正しいのだ」と決めつけたもので日々が営まれているのではないだろうか。教育は「教える」ということによって支えられ、法律は「これが正しいのだ」とすることが前提になっている。
 いろいろな分野で研究や開発が行われ、進歩・発展している部分も多いが、「どれが正しいのか」という検討は意外と少ないように思う。その背景には、無意識の中にも、進むべき方向は「これが正しいのだ」とするものが出来上がっているかのようだ。理論を究めて、その通りの結果が得られて実証されると、「成功だ」「これが正しい」となっていく。科学技術や物質経済や知識教育などの分野での進展ぶりがそれを物語っている。
 常に「どれが正しいのだろう」と探究していく。どこまで究めても、どれだけ確かだと思っても、どれだけ多くの賛同が得られても、だからといってそのことを決めつけない、信じない。どこまでも「どれが正しいのか」と検べていくのみである。一切の「決めつけ・執われ」がなくなれば、人間生活や社会組織も一変するだろう。「教える」教育はなくなるだろう。果たして「信じる」宗教はあるだろうか。「断定する」法律や裁判はどのようになっていくだろうか。

 「聴く態度」とか「科学的究明態度」という項目を前に挙げたが、ここでいう聞き方・考え方・検べ方というのは、俗にいう「やり方」ではなく、「態度」である。決めつけないような、執われないような、信じ込まないような、「やり方」ではなく、「態度」が必要なのである。これは、その人の日々の暮らしぶりとも云えるし、生き方とか生きる姿勢とも云える。或いは、思考パターンとか思考回路とも云えるだろう。とにかく、その人の活動を司っているであろう意志や心が、そういう態度であるか否かということである。
 「信じることもないし、疑うこともない」。これは単なる方法でも処世術でもない。
 最も素直で、謙虚に生きる人の姿だと思うが、どうだろうか。
・自分には思いもよらない意見や考えなら、もっと寄っていって聴きたくなる。
・自分と同じだ、やっぱりそうだ、と思う時など要注意。
・満場一致の時こそ、他の意見はないのだろうか、これしかないのだろうか、とさらに慎重になる。
 究めれば究めるほど、確かめれば確かめるほど、「間違いない」と強固に信じていくのではく、「本当だろうか、もっとないだろうか」と探究・考察の手をゆるめない。そういう態度が必要である。
 こういう生き方、こういう態度には、信仰したり信奉したりするということがない。そして、裏切られたり、だまされたり、ということも起こりようがない。ましてや、マインドコントロールや洗脳などというものでも染まりようのないものである。
 マインドコントロールとか洗脳というのは決して特別なことではない。政治でも教育でもマスコミでも、一方的に教え込んで観念づけるのは洗脳と云えるのではないだろうか。

 私どもは、「宗教」の対極に位置するものとして「研鑽」を挙げる。「研鑽」という言葉には研ぎ澄まし究める、というような意味があると思うが、ヤマギシズムでは「高度の科学的分析」「総合哲学的徹底究明方式」のことを「研鑽」と呼んでいる。
 執われない・決めつけない・信じない・疑わない・何ものにも染まらない・無我執・前進無固定・真理則応など、本稿でここまで述べてきたことを総合的に受け取っていただければ、「研鑽」の意味が掴めるのではないかと思う。


『その無固定無所有ね。殻のないものね。真理絶対を目指しながら、それを人間でやろうとするもの、こんなのはあまりないと思う、ここまで純粋でいこうとするもの。』

 

 私どもがいう真の科学的究明態度「研鑽」とは、一口で言えば「無固定・無所有・真理則応」である。無固定の安定さ、無所有の広大さ、そういう状態が真理に則っているといえるのではないだろうか。
 過去にも多くの偉人・賢聖・天才が現われ、真理の究明と真理の実践に努力を傾けた。大きな業績を残した人も数多くある。それらの多大な人類の歴史的行績を最も有効に活かすために絶対不可欠なのがこの「研鑽」である。「真理」を究明し実践しようとするわれわれ人間に科学的究明態度「研鑽」が必要なのである。
 如何に真理の究明・実践が進んでも、決して固定のない、所有のない「研鑽」の態度が必要なのである。偉大な功績でも、それを信じたり持ったりすれば、ただちに真理から外れた人間の傲慢となる。
 人間はどこまでも謙虚であらねばならない。これは道徳的なことではない。真に科学するという知的な行為は人間の分を超えられない。人間が人間の分を超えて、自分を、或いは他の人を絶対視することが真理から外れる元であり、それを信じて持つから、反目や争いが生じるのである。

 神のお告げだとか、天の声だとか、そういうものは人間しか決める者はいない筈だが、それを人間の考えではないと言っている。神とか仏とか他にもっと絶対的な力を持った人間以外の存在が仮にあるとしても、私達は人間であり、人間は人間にできることをしていくのが本分である。それなのに、何か絶対的な力や他の高い能力の持ち主を信じて、それにすがることを良いことのように教える宗教信仰は、人間としてのまともな姿ではない。
 真理というものがあるとしても、或いは法とか原理とか、神とか仏とかいろいろな呼び方はあるとしても、人間がそういうものを「絶対だ」として信じたり持ったりするのは傲慢で、人の道から外れていると云える。
 釈迦やキリストもおそらく真理を究めるところまで達したのであろう。しかし、それを教えて信じさせたのか、周りが勝手に信じたのか、何れにしても同じ人間であり、教えたり信じたりすることなど出来ないのが本心だと思うが、どうだろうか。どんなに優れた秀でた人でも人間の分を超えることは出来ないと思うが、どうだろうか。

 人間は人間でなければ出来ないことを成すことこそ、最も高い人生である。あやふやな観念があり、捉え違いし易いのが人間である。そして、これが絶対だ、間違いないというところまで云いきれないのが人間である。そういう人間によって、人間のできる限りの能力を尽くして、絶対の真理に則していこうとするものである。それには、人間は一瞬たりとも止まってはいられない。突っ張ったり、こだわったり、決めつけたりしていられない。たえず本当はどうか、真理はどれか、どれが正しいのかを究めていこうとする、そういう態度、そういう思考、そういう観念でいることが人間としての生き方であろう。
 人間がどこまでも真の人間らしく生きられるよう、至上純粋を期するための「研鑽」態度である。


『やはり真理に則応した暮らしで方でないと真理に拘束される。』
『厳しいようだけれど、ちょっとでも真理に則応していないと、どこかに不合理が出て来るから、個人の正常健康も、全人のそれも、宇宙の正常健康も、一つのものだと思う。』

 

 宇宙自然界の存在は、物理現象・化学現象など一つの理に則って動いているのだろう。天体の動きも、分子や原子の動きも動植物も、理に則って何らかの法則性をもって動いていることだろう。その中において、人間界は、特に人間の観念界は、物理法則・化学法則というものでは推し測れないものである。人間といっても人体そのものは他の動物と大差なく、骨格・臓器・各種細胞などで構成され、何らかの物理法則・化学法則の下に動いていることだろう。
 他の動物にも観念はあるかも知れないが、おそらく観念よりも本能的なものの方が占める割合いが大きく、それほど観念の影響は大きくないのではないかと思われる。それに比べ人間は観念動物と云ってもいいくらい、観念の影響が大きく、人間の思考や行為は本能的なものも確かにあるが、その上に観念の影響がプラスされて、観念の影響の方が占める割合が相当高い。
 観念によって、観念を通って、思考や行為が現われ、観念の状態が肉体にも大きく影響していることが多々ある。言い替えれば、考えることや行動することは、その人の観念の現われだとも云えるだろう。体調や健康状態も観念の現われであることが多い。
 人間は日々生活を営み、産業を興し、社会を構成し、それぞれの人生を送っている訳であるが、その多くの部分が観念の現われである。衣食住などの人間の生存に必須な要素にしても、本能的欲求を満たすためだけなら、他の動物並みの生きながらえる程度のもので済むだろう。人間には他の動物にはない非常に発達した部分が頭脳にあって、それが知性や感性などと組み合わさって、年月を経るに伴って「観念」というものが非常に大きく形成されるのだと思う。
 「観念」がやっかいだからと、人間の観念を無視するようでは、それは他の動物並みの人間生活を意味することになるだろう。
 人間は生まれながらにして発達した頭脳を具えており、それは生長する。生長の過程で見たり聞いたり行なったりしたことが、頭脳に蓄積される。それは単なる記録を残すような蓄積ではなく、知識とか経験とか、後に用いられる「観念」というものを形成する。

 これまで、自然化学の分野などでは、物理現象とか化学現象などを深く検べ、実験と研究を重ねて物理法則・化学法則などを見つけ出そうと努力し、その成果は人類史の中に輝かしいものを遺している。それに引き替え、「観念現象」というものに対しての研究は殆どなされていない。どこかで行われているのかも知れないが、画期的な成果は見られない。理に則って動く「観念法則」というものがあるかどうか知らないが、人間の「観念」についての分析解明をもっと進めることは人類にとって最重要課題であり急務だと思う。
 「観念」の影響が甚だ大きい人間にとっては、「観念」によって、考えることも、行動することも、健康状態も大きく変わってくる。つまり、生活も産業も社会も政治も、「観念」が正常になればみな正常になる。「観念」が理に則ったものになれば、そこから現われる「現象」は、みな理に則ったものになる。
 理に則った観念「理念」というものの必要性を重ねて強調するものである。人間の観念を客観的に見てみると、「観念」にはどのようにも変えられる高い柔軟性と適応力がある。人類の高い頭脳の産物である「観念」を、その高い頭脳によって最高に活用していくべきである。
 それには、これまでの「理念」を意識しない「旧来の観念」を、すべて見直してみる必要がある。固定や所有の観念は「非理念観念」である。宗教信仰・我執・頑固などの非理念観念からは理に則した現象、つまり正常な人間生活・人間社会は決して実現しないのである。

 凡ゆる学者・実際家・研究家・実行家のみなさんに、特に自然科学者の方に、「観念現象」の分析・解明と、「理念」の究明に興味と関心を抱いていただきたい。そして、いわゆる観念的でなく抽象的でなく、知的に具体的に科学的に「観念の解明」と「理念の究明」の発展と前進に力したいと念ずるものである。これは人類にとっての一大事業であると私どもは考え、各方面からの参加協力を心の底から熱願するものである。