< 宗教から研鑽へ >
8.所有観念を放す 「無所有」について

『どういう点が違うか判るかな。一番肝心なところ。放すということね。これが心の問題だと思う。持つというのと、全てを放すということね。』

 

 ここでは所有ということについて述べてみたい。
 人はどこまで所有すれば気が済むのだろうと思うことがある。自分が手掛けたものだけでは飽きたらず、埋蔵資源や海域までも所有の対象にする。そういえば、人類が初めて月へ降り立ったときアメリカの国旗を掲げていたが、月面までも所有しようというのだろうか。
 さすがに空気や太陽光線まで所有しようとはしていないようだが、これとて、人間のことで、いつどうなるか分からない。空気の所有権なども言い出すかも知れない。
 地球は所有の対象になっていないかというと、人類のものだと言う人がいる。人類とて無数にいる地球上の動植物の中の一部でしかないのに、厚かましいのも甚だしい。地球保護だとか環境保全だとか動物愛護だとか云うが、人間の独り芝居的な独善的なものが多いと思う。生物・無生物、凡ゆるものの声にもっと謙虚に耳を傾けねば・・・・・・。無生物に始まり、原生動物などを経て、その末端の子孫が人類である。人間だけが偉そうにするのはおかしい。他の動植物は「自分のものだ」「みんなのものだ」などと突っ張り合うことはない。所有があるのは人間だけである。
 所有とは、所有という実態ではなく、所有という観念である。
 実態は所有などしきれるものでない。
 所有できると思って、所有していると思っている人間だけの観念である。
 自分のものではないが、みんなのものだという考え方がある。これも所有観念である。宇宙自然界に存在しているだけの物を、人間が勝手に「誰のもの」と決めて、持ち囲うこと自体おかしい。そんなことは出来る筈がない。
 ずうーっと遠く離れて地球を眺めて見たら、これは「自分のものだ」「わが国のものだ」と突っ張り合っている人間の姿は、滑稽で笑止で見て居られないだろう。
 海の魚や地中の資源も、採ったとたんに「誰のもの」ということになる。それが高じて、海や地中までも「誰のもの」と決めていく。こういうのは、人間の横暴と云うより無謀と云うしかない。
 犬や猫には所有観念はないだろうから、どこの土地にも自在に出入りできる。幼な子にも所有観念がない。お母さんが「これは誰々のですよ」「これは自分のだよ」と、とにかく元々ない筈の所有観念を植え付けるのに一番手がかかるらしい。
 金を払ったから、自分で働いて得たからと、「自分のもの」であることを正当化するが、では果たして自分自身は「自分のもの」なのかどうか。自分は「自分のものだ」などと云えるのかどうか。空気や水や日光や地球上の動植物・無生物を吸収してここまで大きくなって生きながらえているにすぎない。言ってみれば、いろいろ食べた物の成り変わりが今の自分という存在である。そんな寄せ集めのような自分なのに、自分、自分とこだわらなくていいと思う。
 以上の述べ方は、物の世界に偏しているやに解釈されやすいだろうが、物質のみについての突っ張り合いを指しての事でなく、特に精神や観念について繰り返して述べたように、「正しいのだ」「間違いない」「信じられる」という自分の観念を突っ張るところに大きな問題があることを重ねて強調したい。

 頑固になっていくか、謙虚になっていくか、その岐かれ目は、「これが正しいのだ」とするのと、「どれが正しいのか」とするのとの違いである。
 人と人が仲良くできない、反目し争うのも、全てここから来ている。あんな非常識なことを言った、こんなひどい事をした、許せない、けしからんと自分の観念で判断して裁いている。そういう時の心の状態は、「自分の観念」と「現実」とのギャップで混乱を生じているのである。自分の思い通りにならない事に腹を立てているのである。事実は自分の思いや考えとは関係なくやって来るのに、その事実が自分が思っているのと違うと云って腹を立てる。ひっかかる。自分で自分の感情を害している。
 ありのままに事実を見たらよいのに、その通り人の意見を聴くだけでよいのに、何か自分の中に頑として動かさないものを「持っている」から、それにひっかかり、どうにもならない自分の思いに手を焼いているのである。

 信じる、決めつける、執われるというのと、科学的究明態度との違いを、もっと明らかにしておきたい。
 持って囲うことを「所有する」というが、それは、「物」そのものではなく、所有していると思っている観念のことで、物のことではなく観念のことである。この「持つ」という観念が、物に対しても、自分自身に対しても、自分の考えに対しても作用して、「自分の物」「自分は自分のもの」「自分の考え」というように、いろいろなものに「自分」をつけて持ちたがるのである。
 「これが正しい」とする観念も、自分が正しいと思っているにすぎないのだから、固持したり執着しないで「これが正しい」とは思わない人の意見もよく聴いてみることである。しかし、「これが正しい」という自分の考えを持っていると、「これが正しい」とは思わない人の意見を心から聴けないものである。
 ここで、「放す」というのが必要になってくる。所有を放す、自分を放す、自分の考えを放す、ということである。これは、信じる、決めつける、執われる、というのと反対のことである。自分の中に何も「持つ」ものがない、凡て放している状態である。物も考えも減ったり移動したりしないそのままである。
 「持つ」のは、執着である。頑固である。所有観念である。
 「放す」のは、無執着である。謙虚である。何も持たない何でも聴こうとする態度である。
 「持つ」と「放す」。驚くほど易しいことだが、こんな易しいことに決定的な違いがあるのである。


『結局、私の考えね。誰のものでもないのと、私のものという対照的なものね。ただ観念だけでなく、事実は持っているか持っていないかと考えてね。これが何でもないようで、人間が暮らしていく上に、本当に楽に暮らすかどうかの一つの考え方の基になると思う。一番基になるのはそこの考え方かと思う。』

 

 仲むつまじい家庭や夫婦を見てみよう。うち溶けて仲の良い間柄では「自分の考えはこうだ」と意地を張ることもない。最近の世の中には個人主義的な考え方が蔓延して、自分の考えを通そうとするのを良いことのようにして教えている。仲の良い一家なら「おじいちゃんがそう言うなら、そうしようか」「そういうことはおとうさんが決めてくれるから」ということで済むが、近頃はそういうのを封建的だの独裁的だのという風潮がある。
 個人主義とは個人を尊重するという意味だろうが、個人が信じたり決めつけている頑固な観念を尊重するという勘違いになっている。だから、意見や考えが違うとすぐに、私は私、あなたはあなたで干渉し合わないのが良い、プライバシーを守るなどと言って、どんどん人は個別化していく。今日の個人主義は閉鎖的個別主義である。
 マイホーム指向が高じて核家族主義となり、今や家族の中でさえ個々別々のまさに個人生活となりつつある。子供の頃から自分の考えを通す習慣をつけさせて、そういう人ばかりの社会では、人と人とが自分の観念を中心にして動こうとするから、人と人とが溶け合うということが容易ではない。人と溶け合うのが容易ではないから、なおさら交わらないようにする。ますます閉鎖的個別化は進む。個人を尊重しているようだが、それは頑固を尊重しているのであり、他を容れない自分に執着する我執観念を助長する温床であり、われ関せずの無味乾燥で殺風景な社会気風を瀰漫さすものであることを忘れてはならない。

 本当に仲良しの間柄なら誰の意見でもやれるものである。
 自分の意見も他の人の意見も、誰のものでもなく、誰が用いてもよい。
 自分の意見を通すとか無視するとか、自分、自分といつまでもこだわったり執着しているが、自分の考えなどと突っ張らなくてもよい。「この意見が良さそうだな」と、何の付属物や人間関係面にも煩わされずに、軽くうち溶け合える。正反対の意見でも決して分裂しない、心底からの本当の仲良し。自分の考えを持たない、突っ張らない、そうする必要がない間柄が、明るく仲の良い家庭や社会をつくる正常な人の姿だと思う。
 現代社会人には、こういう考え方に反論反発する人が多いことだろう。危険視する人もあるだろう。一般的に、自分の好みや考えにこだわったり頑なに持ち続けたりするのを良いことのように教えているが、それが今日の大きな社会問題まで引き起こしていると思う。
 人の意見に盲従したり服従するのが良いと云っているのではない。
 自分の好みや考えに合わなければ気が済まない、自分が納得できないと気が済まないという人がいくら集まって民主的とか公平とか自由を唱えても、仲良くやれる筈がない。
 誰の考えも絶対正しいとは云いきれない。どの意見が最も良いかは分からない。これを素直に認めるならば、自分の考えを通そうとしたり、誰かの考えを良いと断定するなど、できない筈である。
 誰の意見でもやれる。誰の意見も間違いかも知れない。そこから誰かの意見でやろうとするのだから、軽い。もし違っていたら改めていこうとするだけである。だから、責任も負担も責め合いも一切要らない。それとは逆に、意見が一致したら一緒にやれる、自分が良いと思う意見なら受け入れる、そういう自分の考え中心の人達でつくる組織や社会では、いつか必ず破綻を来たすのは目に見えている。
 自分の考えを正しいとしたり、誰かの意見を通そうとすることこそ、非民主的で不公平で一方に偏った危ない行き方である。多数決などは、不公平で非民主的な危ないやり方の典型である。多数派は自分の考えが通ったと喜び、あたかもその考えが正しいと判定されものと思い込む。少数派は我慢や諦めでそれに従う。多数決のどこが民主的で公平なのかと、問いたいものだ。

 教義や教祖を信奉するのと同じように、主義・思想や政党・団体を支持するのも、みな自分の考えである。自分の考えによる選択である。自分の考えは誰にもある。しかし、その自分の考えを「持つ」から、他の考えと溶け合わなくなる。溶け合えないものは互いに別離するのである。個々の考えを尊重するというのは、頑固・我執を尊重することではない。
 みんなの考え、組織の考え、人類全体の考えといっても要はそれに賛同する自分の考えである。その考えを「持つ」か「持たない」かである。
 人間社会は人と人とによって構成されるものである。その人と人との間で、自分の考えを「持つ」か「放す」かということが、「どういう人間社会に成るか」を決定づけるものである。過去の歴史が物語っているように、これまでの人類史は「自分の考えを持つ」歴史であった。

 無所有とは、放し切った、持たない、所有のない世界である。人間が所有観念の無要さに気付いて、物を持たない、自分の考えを持たない、何ものも信じない、決めつけない、執われないという、ありのままの存在そのものが「無所有」である。それに基づいた社会が「無所有社会」である。所有観念で生きるか、無所有観念で生きるか、持つのか、持たないのか、執われるのか、執われないのか。生まれた時のような人間らしい人間で一生をすごす。自由闊達・天真爛漫・健康豊満・和気靄々の人生。全人に幸福一色の快適社会を齎す根源本質的要素が「放す」「無所有」である。