< 宗教から研鑽へ >
7.信じない固定しない科学的究明態度

『科学すると云ったら一つ一つ分析して検べていくもので、何かに立脚してとなったら、もうそれは科学でなく宗教だろうね。宗教を科学する。科学を科学する。』

 

 宗教を肯定したり信じている人は、「宗教を科学する」ことを嫌うだろう。分析できないものを分析しようとすると言って嫌うのだろう。しかし、これをやらないと、宗教論議に花を咲かせることはできても、「宗教とは何か」という解明は出来ない。
 ここまで述べてきたように、宗教と観念との関わりは大きい。だから、いきなり「宗教とは何か」とやらずに、一つ一つ分析的に解明していって、人間の観念について検べ、事実や物象について検べ、今の段階で分かるものと分からないものを分類し、分からないものは、今は分からないとして、それを特別視したり絶対視したり、神秘的だなどと色をつけないで置いておく。
 そうすると、宗教が宗教として存続している要素、例えば「信じる」とか「信仰」など、宗教に不可欠な要素がはっきりしてくる。それを検べていくと、「信じる」とはどういうことか、何を信じているのか、「ああ、信じるとはそういうことか」と分かってくる。
 「宗教とは何か」をやっていくと、「信じる」ということの実態が分かってきて、宗教教団的な宗教だけが宗教ではなさそうだ、日常生活にも社会活動の中にもたくさん宗教がありそうだ、宗教的なものがありそうだ、となってくる。そこから、「信じる」こと、宗教であることが、全てのことにどのような影響を及ぼしているかなども検べたら分かってくる。
 宗教を科学して、その実態が分かってくると、今度は「科学とは何か」と検べていく。どういうことを科学と呼んでいるのか、今日行われている科学はどういうものか、それは科学と云えるものなのかどうかと進んでいって、今の科学を検べる、分析する。つまり科学を科学する。
 今の科学で説明できそうなもの、根拠がありそうなもの、そういうものだけを取り上げて、それ以外は取り上げないなら、科学しているとは云えない。宗教である。
 そして、宗教でないということはどういうことか、本当に科学するというのはどういうことか、と進んでいく。科学するといっても、注意しないと、「宗教科学」に陥っていることもあるから、本当の科学をはっきりさせて、何事にも「本当に科学する」ことを目指して、より確かなもの、より間違いないものをと検討しながらやっていく。

 「これならはっきりと説明がつく」とか「こういう原因でそうなるのか」と自分が納得できる時は、特に注意が必要である。説明や原因が自分に納得できるものならば、その時点で結論になってしまう。結果を裏付けるような原因を見つけると解明できたかの如く結論づけるが、それで納得してしまうのが宗教的観念である。
 それが原因だとしても、「何故そういう結果になるのか」「どういう過程を経てそうなるのか」「本当にそれが原因か、他にはないか」と、どこまでも検べて分析しなければ、科学する態度とは云えない。
 科学的究明態度とは、決めつけのない、自信のない、教えることもない、執われることもない、信じることもない、最も謙虚な態度である。それは、物象面の変化を信じ込まない態度である。どんなに桁外れな結果や変化を来たそうとも、何ものにも染まらない、信じ込まない態度である。いつでも、「何故そうなるのか」「何故そう云えるのか」と分析する態度であれば、事実という結果に圧倒されて、染まってしまうことはない筈である。
 信じたり染まったりするということは、結果や結論を「間違いない」と固定することである。固定のない流動的な態度、どこまで極めてもさらに検べる余地を残している謙虚さ、それが科学する者として必要な態度であろう。


『安定の意味をとり違えて、固定するのを安定したと取り違える。そういう意味の安定がないのが本当だと思う。だが、その固定しない不安定状態が少しも止まらない状態。それがそのまま安定だと云えるのでなかろうか。一瞬も固定していないもの。固定したものが安定だと思ったら永久に得られないと思う。絶えず千変万化。不安定の安定。』

 

 科学することの目的は、より確かなもの、より間違いないものを極めることにある。そこに、たゆまぬ進歩・発展があるだろう。より確かなもの、より間違いないものとは、いつ崩れるか分からない、明日どうなるか分からないというような不安・不安定なものではなく、いつまでも安定した変わらないものである。
 それは永遠の幸福とか恒久平和と云えるものかも知れない。

 諸行無常という言葉があるように、宇宙万物凡ゆるものが何一つとっても一瞬たりとも止まることはないらしい。地球は秒速数百メートルで自転し、公転においては一秒間に数十キロメートルも移動していると云う。また、どんな堅い物質でも、それを構成している元素は常にめまぐるしく動いているらしい。いくら私が眠り休んでいても、体内細胞は一時も休みなく活動し続けているだろう。
 そう考えると、本当にこの世には停止しているものなど何もないのではないかと思われる。私達は、ともすると、安定ということの意味を固定とか停止とかいうイメージで捉え易いのではないだろうか。動かないのが安定であるかの如く、知らぬ間に思ってはいないだろうか。
 何一つ動かないものがない世界に居て、動かない安定を求めることほど滑稽なものはない。動かないものを安定だとしていたら、永久に安定は得られないことになる。
 一瞬も止まらぬ地球の上に居るのだから、地球と共に動いて一瞬も止まらないでいてこそ安定していられるのだろう。過去から現在、現在から未来へと、物も心も、肉体も精神も、有形も無形も、一瞬も止まらず前進し続けるのが本当の安定だと思う。
 物質は刻々と変化している。人間の考えも刻々と変化していくものである。もしも、動かないものを望んだり願ったり求めたりすることがあるならば、それはまさしく妄想と云うべきである。凡ゆるものが一瞬も止まらないのに、ある一部だけ動かぬものにしようとするところに、理に合わないこと、いわゆる無理が生じるのである。
 前述した「信じる」とか「決めつける」とか「頑固」とかは、まさに観念を固定しようとするものである。動いて止まないものを無理に固定させようとするものである。知識や経験や蓄積され培われた観念はみな過去のものである。凡ゆるものが刻々と変化進化している中で、過去の観念だけで裁くことのできるものは何一つない筈である。できない筈のことをやろうとすること自体に無理がある。
 たえず前進して止まない、一瞬も止まらない安定状態から観ると、固定は不安・不安定である。動いて止まないものを固定しようとすれば、ますます安定状態から逸脱し不安定になる。
 規則や法律、道徳や常識やモラルなど、日常生活にも固定断定の発想から出てきているものが多い。しかし、本来は、誰の中にも決めて動かさないものを持たないのが最も素直なのではないだろうか。決められたことや人から教えられたことを盲目的に信じてやるのは、固定したものを持っていることになるから、素直でなく頑固である。或いは、初めから否定的に見たり、疑ってかかって、その通り受けとめようとしないのも、その人の固定観念からするものであるから、頑固である。
 「信じる」のも「疑う」のも、自分の持っている考えを通して、それを前提にしているから、頑固である。非科学的である。「信じる」も「疑う」も同次元のことである。
 本当の「素直」とは、一瞬も決めつけないで、執われないで、信じないで、その通りそのまま受け入れていける観念のことである。ものの本質を探究しようとする科学にも、この素直さは不可欠である。自分の中に決めて動かさないものを何一つ持っていないならば、誰のどんな意見や考えであろうと、自分の考えに固執することなく、今、今、今の連続で、動いて止まない最も新しい意見・考えとして耳を傾けることができるだろう。
 これが本当の科学的究明態度である。