< 宗教から研鑽へ >
6.現代科学 宗教科学になるおそれあり

『今の科学も、宗教科学で、唯物だ唯心だと云っている間は恐らく見えない。それの宗教へ入っているから、それを放さないと分からない。もっと底の本質的なものから検べていきたい。そうでないと、それはあやふやなものでね。常識や道徳の観念でやるなら簡単だよね。』

 

 自然科学の分野では、真理の究明や物的方面の開拓・実証において長足の進歩の跡をみせている。しかし、心理学や人文科学の分野では、自然科学のように画期的な進歩がみられない。心理学や人文科学の分野では、知的に科学しているとはとても云えないのが実情ではなかろうか。常識や道徳など既成概念から脱することが出来ず、人心の解明が遅れ、人間そのものの本質も掴みかねているようだ。科学的学問ではなく、宗教的学習に陥っていると云えるだろう。
 「科学する」とは、分析解明して体系立てることであり、公正にして偏らないことが必要とされる。しかし、今日の実情において科学が宗教化し、本当の科学ではなくなっているものも随分あると思う。それを「宗教科学」と呼ぶ。

 例えば、キリスト教を信じている人は、他の宗教を深く調べようとはしないだろう。それは、そうする必要がないからだろう。他の宗教を知らなくとも、キリスト教で充分であると言うだろう。他からの教えがあっても、みな「キリストはこう言っている」「聖書にはこう書いてある」ということで万事済ませられるのだろう。普通、宗教とはその人の生きる支えや助けに成るものであるから、自分が信じる宗教を持ってそれを信仰していれば、安心できるのだろう。
 もしも、木材だけしか使わないという頑固な建築家が居たら、どんな建物の依頼がきても木材で建てようとするだろう。そして、木材で建てるという見地から、ああしたらいい、ここはいけないと判断して、全てを木材で片付けようとする。その建物自体をよく調べようとしないで、自分の手掛けているもので処理しようとするだろう。こういう建築家は木材建築に執われているから、依頼されている建物そのものが見えない。木材建築というのを一旦放さないと、その建物そのものが分からないのである。そういう自分流の観念をそのままにしておいて、そこから見て、如何に強い確信を持って「ああしたらいい」「ここはいけない」と言っても、偏った観点から出たものは、公正な判断とはほど遠いのである。
 通常、生物学者は「ウィルスは生物である」として研究の対象とするが、「燃えている火は生物かも知れない」と云っても、自分が手掛けている生物の範躊にないから、まともに取り合おうともしないだろう。しかし後々に生物の定義が変わって、火は生物であるということになったら、とたんに生物学者の研究対象になるだろう。生物学者が「ウィルス」の研究をするように、「火」の研究をしたら何か画期的な成果があるかも知れないが、生物学者が生物に関する自分の見解を無意識にでも固執していたら、そういう研究は生まれてこないだろう。
 法律家は、「法律のない秩序ある社会」など考えられないだろう。お金があることで裕福だと思っている人は、「お金の全く要らない豊かな社会」など考えられないだろう。
 みんな一生懸命に知恵を絞っているつもりでも、自分が手掛けているものに立脚していたら、その足元を検べようとはしない。そこへは知恵がまわらない。
 西洋医学に立脚していたら、西洋医学から東洋医学を見ようとするが、それでは東洋医学そのものは見えない。逆もまた然りである。
 ありのままを見ようとする、そのものの本質を見ようとするのが科学である。その態度如何で科学者が宗教家になる。
 自分の手掛けているものから見るのだったら偏った見方である。宗教科学である。
 自分が手掛けているものに立脚する、放せない、こだわる、執着する、自分が信じて手掛けているもの以外は要らない、関心がない、という信仰形態。これらはみな、宗教科学の要素である。


『自然科学が発達するほど悪自信がついて、否定しながら観念で片付けていく、つまりこれが恐い。』
『唯物論も一つの観念ね、こうして変わるからこうだとする観念、振り返ってみようとしないもの、振り返ってもとりあげないよね。』

 

 自然科学が進歩するにつれ、いろいろなものが発見され、解明され、新しいものが造られたりして、どんどん世の中を変え、人々の生活経済の向上に貢献している。物質経済や物質文明が進むにつれて、その発展による恩恵が大きいほど、ますますこの線で間違いないと固まっていく。
 例えば、「金」で欲しい物は何でも手に入り、「法律」で権利や安全が保証され、「自分の時間」で自由やゆとりが得られる、というぐあいである。だから、こういう社会では、誰もが「金」や「法律」や「自分の時間」を大切にする。それが幸福や平和の証の如く思い込まれている。自然や環境、安全や健康、教育や福祉をテーマにしているが、人々の観念が「金」や「法律」や「自分の時間」で得られるものにしか知恵がまわらない。いくら「心」をテーマにしても物象で得られるものにしか知恵がまわらない。そこから抜け出せない。
 事実、それによって、物が手に入り、権利や安全が保証され、自由やゆとりが得られているから、ますますこの線で間違いないと固まっていく。
 それ以外のものを持ち込まれても、それは確かではない、それでは物証できないと云って、今までのもので説明できるものしか取り上げない。

 教育や政治など先の見えないものに対して新しいものを研究しようとするが、研究しようとする学者自身が自分の立場を放せないから、いつまでも新しくならない。
 新しい発想があっても、旧来の手法で証明しなければならないという観念がこびりついているから、新しい発想を本気で取り上げない。
 「金」があれば裕福で、なければ貧しいという現実だから、裕福というとすぐに金が要るという固定観念である。そして事実、金があれば裕福になるから、「それは金のおかげだ」となる。何故、金で裕福になったり貧しくなったりするのか、人と人との間に金が要るのはどういうことか、と本気で分析解明しようとしていない。
 「法律」が有れば治まって、無ければ乱れるという現実だから、治まるには法律が必要という固定観念である。そして事実、法律があると治まるから、「それは法律のおかげだ」となる。何故、法律で治まったり乱れたりするのか、本気で分析解明しようとしていない。
 「時間」についても同じである。
 こういう観念を具さに検べてみると、「信仰のおかげだ」と御利益を有り難がっている宗教そのものである。
 「金も、法律も、自分の時間も、一切無くて、豊かで、安全で、自由な社会」というような発想を提案しても、誰も恐がって取り上げようとしない。
 それほどまでに、今の観念を信じて大切にしているのである。
 資本主義とか社会主義とか何々主義とか云っても、この点に関しては同類である。そういう主義の中で科学しているといっても、今の科学は、もう一つ抜け出せない観念に陥った「宗教科学」である場合が多い。