< 宗教から研鑽へ >
5.信じる観念が信仰である 頑固我執が宗教である

『これが間違いないと、教えようとする、そこからくる殻を持つもの。溶け合えないものを持つ、それは何かと云うと、この考えは正しいと信じ込むもの。』

 

 学問でも技術でも進歩・発展するにしたがって自信を持つことが多い。少数より大勢が賛同すると、それによって自信がついてくることがある。さらに、立派だとか偉いと思っている人が賛成や同調すると、より自信は強くなるだろう。知識や経験を積めば積むほど自信がついてくる人もいる。普通一般に「自信」ということは良い意味に用いられていることが多いようだが、この「自信」というものが非常に危ない観念だと思う。
 確かなもの、間違いないものを、人は願望し欲求する。それを叶えようと進歩・発展していると云えるだろう。進歩・発展は「より確かなもの」「より間違いないもの」に向かっていくのが本来の姿だろう。それがいつの間にか、「これが確かなものだ」「これが間違いないものだ」と決めつける考えが生まれ、それを追うようになり、そういうのが「しっかりしたもの」との観念が定着し、そうでないのは「あやふやなもの」という観念が広まっているようだ。
 しかし、本来「より確かなもの」「より間違いないもの」に向かおうとするなら、どこまで行っても「もっと確かなものがあるのではないだろうか」「まだまだ間違っているかもしれない」というのが本心なのではないだろうか。「これは確かだ」「これは間違いない」としてしまったら、そのことについてはもうそれ以上検討する必要がないとしていることになる。どこまで極めても、全員の賛同が得られても、「もっと確かなものがあるのではないだろうか」「まだまだ間違っているかもしれない」という考えであれば、決して「絶対だ」などと決めつけることは出来ない筈である。
 今の世の中には、「絶対だ」「間違いない」という「断定」を元にして営まれ、成り立っていることが非常に多い。だから「これは絶対間違いない」と言えるものがなかったら、世の中が成り立たないかの如く思う人もいるだろう。凡ゆる事柄について「もっと確かなものがあるのではないだろうか」「まだまだ間違っているかもしれない」などと言っていたら、とても物事が進まないと思う人が沢山いるだろう。

 「断定」を元にしているものの中の大きな一つに「教える」という事がある。「教える」背景には「これは教えても良い」と決めているものがあり、そういうものがなければ「教える」ということは成立しない。「教える」という言葉も、一般では「自信」と同じように良い意味で用いられている。そして、むしろ人間生活には欠かすことの出来ない要素であるかの如く位置づけられている。
 未だ人類の進歩・発展・解明のさなかにあるのに、その初歩的或いは中間的な結論を「これは確かだ」「これは間違いない」と決めつけて「教える」ことなど出来るものなのだろうか。

 「自信」や「教える」ことを支えにしている「人」や「団体」は多い。その背景には「これは確かだ」「これは間違いない」と決めつけているものがある。そういうものが崩れると、その人やその団体は「自信」や「教える」ことの元が崩れて支えがなくなる。「自信」や「教える」ことの元を揺さぶることは、その人やその団体そのものを揺さぶることになる。その人やその団体にとって、その部分は最も重要なものである。だから、そこを揺るがすようなものから頑なに守ろうとする。或いは揺るがすようなものを排除しようとする。宗教家が、教育者が、自信家が、自らが持つ「自信」や「教え」を揺さぶられたら、どう出てくるだろう。
 例えば、お金だけが頼りの金持ちは、金にしがみついて金を必死で守ろうとする。もしも金が無くなったらガックリする。あの自信満々はどこへ行ったんだろう。金と共に去りぬ、である。
 最先端の科学者と云われる人でも、立証・実証・定義や法則などに立脚していることが多い。定義に立脚した理論は、その定義を「間違いない」と決めつけているから理論が成り立っているとも云える。学問の中の根本になる定義や法則にメスを入れて疑い始めたら、その学問そのものが成り立たないという人もある。こういう学問や理論は科学とは正反対で、「決めつけ」の上にあぐらをかいているようなものである。それは前述の金持ちの例と同じで、根底の確立しない脆い学問・理論である。
 このことは、どんなに高尚な学問の人でも、政治家でも、大事業家でも、勝負師でも、宗教家でも同じである。「自信」や「教え」が通用する範囲ではうまくいくが、ひとたびそれを揺るがすようなものに出くわすと、とたんに相容れない、仲良くやれない、必死に守ろうとする、抵抗する、反発する、対立する。
 そこには厳然と他と溶け合わない強固な殻が存在する。その正体は何だろうか。
 それは「信仰」である。
 間違いなく正しいと信じて、それにすがり、しがみついて、頑なに守ろうとする「我執」「信仰」に陥っているからだと思うが、当事者でそれに気づける人は非常に少ないだろう。


『殻が有る。無い。ということね。考え方そのものに囲いが有る。無い。ということ。一寸あっても有るのだから、これ自体を宗教と云っているのだから、私の考えは良い正しいとして動かさないものね。とにかくこの頑固・我執を僕は宗教という。』

 

 たとえ「これは確かだ」「これは間違いない」と思ったとしても、それとは異なった意見や考えが出てきた時に、素直に聴いて考え直そうとするか否かである。反対意見に耳を傾けようとしている人でもなかなか自分の考えを考え直そうとしない人がいる。物腰は柔らかそうに見えても、自分の考えや信じていることを考え直そうとしない固い人もいる。表面的な言葉の上での「断言」云々ではなく、その人の内面のことである。その人の心や考えの根底に「これは確かだ」「これは間違いない」と決めて動かさないものを持っていないかということである。
 ここまで数々の例をあげて述べてきたことだが、豊かさ・楽しさ・幸福・平和・などなど、そのものを願い目指していくことは、その通り必要なことだと思う。
 これに対して繰り返し警告しているのは、「ああいうのが豊かだ」「こういうのが幸福だ」という観念のことである。「ああいうのが一流だ」「これなら間違いない」という観念のことである。「豊かさ」を目指すなら、どういうことが豊かさなのだろう、これが本当に豊かさなのだろうかと、どこまでも「より確かなもの」「より間違いないもの」を探っていくのが本当だと思うが、どうだろうか。真理を探究し、それを目指すにも、「これが真理だ」と決めつけることなく、どこまでも「どれが真理だろう」「これが本当に真理だろうか」で行きたいものである。

 ここで問題にしたいのは、「絶対だ」という決めつけが人間の幸福や平和を妨げる大きな原因になっているということである。小さくは日常の人間関係の反目から、果ては人類間の戦争に至る最大の原因になっているということである。同じ人類でありながら、思想・観念の対立から争いが起こる。対立するということは互いに自分を守り他を排そうとするからであり、また自分が正しく、相手が間違っていると決めつける観念からである。
 如何に人と人とが堅い結束で結ばれた仲の良い集団組織や社会であっても、その根底に「こうである」と決めて動かさないものを持っているならば、いつかどこかで何ものかと対立・反目することとなるだろう。これは、一人であっても集団であっても同じである。対立・反目が生じる可能性のあるものは囲いや隔てのある観念である。自分とは異なったものを受け容れようとしない囲いのある固い殻をかぶった観念である。これを「我執観念」という。
 人間の観念は変わり易いものであるが、また、一旦固定すると、頑として動かないものになる。
 人間が事実を捉え、真理をつきとめたとしても、それは人間がそう思っているだけで、そうでないかもしれない。
 たとえ、地球上の数十億の全人類が「これが良い」と賛成したとしても、本当にそれが良いかどうかは分からない。
 そういう人間が「これが幸福だ」「これが本当だ」「これが真理だ」と言い始めたら、人それぞれの考えによって違いが出てくるのは当然である。人それぞれに違いのある観念で「これが正しい」と決めつけると、そこに信仰が生まれる。信仰ほど愚かなことはない。
 決めつける、断定する、突っ張り合う、対立・反目するなどは何れも自分の観念に執着したところから生じる。
 「信仰」とは自分の観念に対する執着である。

 「信仰」に関連して「信じる」ということについて述べておきたい。
 日常生活でも、信じるということはよく使われている。人を信じる、報道を信じる、機械を信じる、神を信じる、仏を信じるなどなど、「信じる」といってもいろいろありそうだ。辞書によると「正しいとして疑わない」などと書いてある。
 まあ、この「信じる」というのも、その人の中に培われた観念のなせるわざであって、人の心の内は誰も制約出来ないから人それぞれで、誰が何を信じるか、人によって信じることも信じ方もいろいろだろう。
 ここで肝心なのは、「信じる」といってもいったい「何を信じているのか」「何を正しいとして疑わないのか」ということである。
 前述した「人や物や事柄」を見て、「いいなあ」「立派だなあ」と思う、という例を思い出していただきたい。「人や物や事柄」そのものがいいとか立派とかではなく、そう思う人の中に「こういうのがいい」「こういうのが立派だ」という観念がある、ということである。「信じる」というのも、その人の中に「これは信じられる」「これは正しい」という観念があるからである。そして、いくらその人の中に「これは信じられる」「これは正しい」という観念があっても、その観念が変わり易いものであやふやなものだとの見解があれば、信じ込んだり、信仰したりするところまで至らないだろう。
 故に、「信じる」「信仰する」ということは、自分の観念を間違いないとしているものである。「信じる」とは対象物を信じているように見えるが、そこをよく調べてみると、「自分の判断力を信じている」ことなのだということが解明されてくる。
 どんな立派な宗教家や教団が存在しても、信者がなければ宗教は成り立たない。信者は自分が信仰している宗教が正しいのだという自分の判断を信じない限り信仰は始まらない。
 如何なる「信じる」も、全て「自分を信じている」ことなのである。
 「信仰」とは自分の観念に対する執着である、と前述したが、どうだろうか。
 「信仰」は、如何なるものも「自己信仰」である。
 「自分の観念を信じる」のが信仰である。
 宗教にしても、いろいろな宗派やいろいろな教義があるが、それが信じるに足るかどうかがここでは問題にならない。宗教は、何らかの「信じる」ことによって存在している。
 「信じられないものを信じる」。この「信じる」ということの解明によって、宗教そのものが解けるのである。
 「信じる」対象は全て自分である。
 人間の判断能力は絶対間違いないと信じられる程、完全なものではない。信じられないのが本当ではなかろうか。
 信じない観念界には宗教が発生する余地はない。


『観念に二つある。理念から来る観念と、理に反してもよいとする観念。理念、理に立った観念と異い、ただ無知な観念たるや、非常に危ない。』

 

 ここで、この言葉をもう一度思い出してみる。
 一の「理念について」の項で、真理に則応した観念をあげたが、正確にいうと「真理であろうと思われるものを見出し、それに則応していこうとする観念」である。「これが真理だ」と決めつけなければ始まらないというものでなく、どこまでも「これが真理ではなかろうか」と、いくら究めても人間の観念の範囲を超えることは出来ないことを自覚して、「より確かなもの」「より間違いないもの」を探究して止まない観念である。
 真理に則応していないじゃないかと指摘されれば、そうかも知れないが、そうであってもなくても真理に則応していこうとするのみである。
 自然科学でも宗教でも真理という言葉が使われるが、真理とか、理とか、法とかの言葉を使っているかどうかは、あまり関係ない。真理という言葉を使っていても、決めつけて動かさないものを持っているならば、単なる真理という言葉を使った一つの観念にすぎない。ましてや、自分達だけが真理で他はみな間違い、とする観念があるならば、それは盲目的信仰・自己信仰に他ならない。

 「理に反してもよいとする観念」とは、理念を無視したり、理念に無関心だということである。酒を飲んで「ああ、おいしい」「ああ、心地よい」と思う場合もあるだろう。麻薬を打って「ああ、楽になった」「ああ、良くなった」と錯覚する人もいるだろう。成績が上がって良かった。儲かって良かった。病気が治って良かった。楽しくて良かった。喜んでいたから良かった。仲良くなったから良かった。本当にそれが良ければ良いのだが、何れも物象面の変化を信じ込んでいるのである。生まれてから今日まで育ってくる過程でいつの間にか培われた観念で、良かった、悪かったとしているだけのことである。まさしく理念無知の観念である。
 先ず、私達はその事柄が良いとか悪いとか論ずる前に、私達の観念そのものが正常かどうかを検べる必要がある。それは一度検べればよいというものでなく、たえず観念が正常かどうかと検討して、観念そのものを「より確かなもの」「より間違いないもの」にしていくことである。
 証拠が揃ったからこれが事実だと云うが、事実か事実でないかよりも「証拠が揃ったら事実だ」としている観念を調べる。
 証明できたから間違いないと云うが、間違いがあるかないかよりも「証明できたら間違いない」としている観念を調べる。
 信じたり、信仰していると、自らの観念を検べることは出来ない。宗教をやりながら宗教に染まった状態で、「宗教とは何か」をやっても出来ない。このように自らの観念を検べることが出来なくなっている観念状態を「頑固観念」という。自分の観念に執着するのが「我執観念」である。「頑固・我執」、これが宗教である。

 人間の観念はどこまで行っても真理そのものにはなり得ないと思う。もし、なり得たとしても、それを確証し断定出来ないのが現在の人間だと思う。それを自覚した上での「真理則応の観念」である。人間の考えで突っ走ると「観念づけた似非真理」になりかねない。どこまでも、真理に則応した観念たらんとして、自らの観念を検べ続けていくものである。
 それには、本当に謙虚な態度で自らの観念を検べ続けていこうとするものである。
 「これが正しいのだ」とするのと、「どれが正しいのか」とするのと、そこの違いだけである。この違いが根本的な違いなのである。
 真理に則応していこうとしているかどうかは、自分の観念をたえず検べようとしているかどうかである。