< 宗教から研鑽へ >
4.観念が宗教信仰に傾いていくからくり

『宗教では仲良く楽しくやっていたら幸せだという観念で人を引っぱっていく。現象をみて良いではないかとする観念が入ったら、これが非常に危ない観念だと思う。』
『科学者を以って認ずる人も、無自覚の中に、宗教で家族や知人の病気が治るのを見て引きずられていく。』

 

 人が宗教に入っていく大きな要素としてあげられるのが「信じ込む」ということである。賛成とか同調とかの段階ではなく、それを信じ込んでしまうことから始まるのではないだろうか。いいなあ、すごいなあ、素晴らしいなあ、とその良さを信じ込んでいくのである。
 信じ込む要因は信じ込む対象にあるように見えるが、実は、それ以前に、信じ込む人の内面に信じ込むような基準が既につくり上げられているからであり、それとピッタリのものに出会うと、ゾッコンまいってしまうのである。
 うまくいっている、立派にやっていると、「いいなあ」と見る見方が相当根強くある。人が楽しんだり喜んだりしていたら、それを「いいなあ」と見る見方が相当根強くある。だから、立派なものを見せられると、コロリとまいってしまう。そういう心理をうまく捉えて、立派なところを見せて人を寄せようとするものが巷では多い。姿・形が立派だとそれは「良いものだ」と錯覚し易い。
 商売が繁盛して家族一同健康で仲良くやっているのを見て「ああいうのが良い」とする見方が相当多い。「事実、良いではないか」と言われるだろうが、「ああいうのが良い」としている元は、子供の頃から培われた観念によって「ああいうのが良い」としているのである。だが、実際にはそのことに気づかないで、「事実、良いではないか」としている。さらに自分だけが良いと思っているのではなくて、みんなが「良い」としているから尚のこと、「ああいうのが良い」となる。そこには暗黙のうちに一つの基準が出来上がっている。テレビのホームドラマやコマーシャルなども、「こういうのが良い」という観念形成を国民的規模でやっているようなものと云える。良い家族、良い商売、良い人、そういう観念をつくり上げてそれを基準として考えるようになっていく。そこに理があるか否かでなくて、論拠のない観念の動きである。

 沢山の人が集まる、なかなか評判が良い、マスコミにも取り上げられている、事実、効果効用の実例が沢山ある、と大体これくらい条件が揃えば、みんな「あれはきっと良いに違いない」と、直接見たり聞いたりしなくとも、そういう思いが芽生えてくるのではないだろうか。そのように芽生えた思いで見てその通りならば、「やっぱりそうだ」と思いが強くなる。こういう例は日常的にも多いと思うが、かなりの先入観念で見たことも忘れて、当の本人は「自分の目で確かめたのだから間違いない」と信じ、時には他の人にまで吹聴して勧めたりする。

 この事は日常生活の中で非常に大きな部分を占めていると思われるので、繰り返して述べておきたい。「人や物や事柄」を見たり聞いたりして、「いいなあ」「立派だなあ」と評価する場合の殆どが、その対象である「人や物や事柄」が事実、いいとか、立派だとか、思っているのである。しかし、実際をよく調べてみると、それを見たり聞いたりしている当の本人の中に、「ああいうのがいい」「ああいうのが立派だ」という観念が形成されているからであって、その対象そのものが「いい」とか「立派」ということではなく、本人の観念の中にある「いい」とか「立派」に当てはまっているということである。信仰形態に入ると、こうした事実や理とは別の観念が一人歩きするが当人は気付かないものである。

 ある仕事を一つとってみても、実績を上げる人と実績の上がらない人がいる。実績の上がる人を見て、その人は仕事をよくやっているとしている。実績の上がらない人はあまり仕事をやっていないとしている。或いは、言ったことは必ずやる人と、言うばっかりでやらない人がいると、前者は真面目だとか信用できるとか、後者は不真面目だとか信用できないとしている。このような場合の多くは、前者を快く受け入れ、後者に対しては厳しく否定的である。「言うだけでなくて、必ず実績を上げていく」とか、「言うばっかりで、ちっとも実績が上がらない」とかの何気ない言葉づかいの中に、「こういう人が良い」「こういう人は良くない」という、人を評価するためのはっきりとした判定基準を持っているのが分かる。こういうのを、実績信仰形態、実績至上主義と云いたい。
 事実を突きつけられたら反論のしようがないと云う。実績を上げてきたら文句のつけようがないと云う。このように事実や実績があるから「間違いない」とすることを、さも当たり前の如く思っているが、何故そう思っているのか、よくよく分析して検べてみることが重要である。
 これと同じ類いに入るが、証明とか証拠というものを絶対視する分野がある。その分野では、それ故に証明や証拠に場合によっては命をかけるくらいに、何よりもこれを重要視する。一般に科学といわれる分野では証明が重要で、証明されたものに関しては「間違いない」となる。証拠というのは、事件の捜査などで用いられる。証拠を固めれば犯人を断定できるとされている。
 ここでは前述の実績信仰形態や実績至上主義と同様に、証明や証拠が確かならば異論を唱える余地はないとなる。証明や証拠があれば「間違いない」とする人達でそういう分野が出来上がっているとも云える。まるでつじつまの合わないことや、そんなバカなことは起こる筈がないと思っていることでも、証明や証拠を見せられると、何も言えなくなってしまう。そして「そうなのか」と認めていく。これをよく分析してみると、人間が考えたり行動したりすることが正しいかどうかを判定するには証明や証拠が必要だ、「証明や証拠があれば間違いない」とする観念が相当根強くあるということが判る。今の社会はこうした実証主義の社会である。その実証が当っておれば、或いは理にかなっていれば、何も云うところはないのだが。

 科学者なら真理を探求し、学理を極めようとしていくのが本業の筈だが、探求や追究よりも、論証・実証・立証をと、そちらに力が入ってしまって、どこまでも究めるという科学者の態度ではなく、証明を以て結論づけるという学問となる。証明や裏付けられた事実であっても、それを絶対視するという観念は科学的ではない。「何故そうなったのか」「何故そう言えるのか」と原因や過程を調べることよりも、「そうなったという事実の方」に心が奪われてしまう。一旦そうなると、事実に目がくらんで冷静に検討することが出来なくなる。それどころか、多くの場合、「事実そうなるのだから」と原因や過程を調べようともしなくなる。研究し解明することが本業の学者でも何かを信じると、そこで研究がストップし結果に対しての信仰形態に入っていくものである。


『信じることによって、心理作用に変化が起こり、現象に現われる。』
『宗教家は観念の変化による物象面の変化を有り難がっているもの。現象界でいけたらそれで良いとするもの。』

 

 この言葉は、宗教・信仰・御利益に至る過程を明快に分析・解明した表現である。
 これまで述べたように、事実・現象・物象に対して、「ああいうのがよい」「ああいうのが立派だ」という先入知識や常識観念が相当根強くあるので、物事の判断をそれに頼り易い。
 宗教信仰観念の典型は、信仰によって物象面の変化が起こったのだと信じ、それを御利益として有り難がることである。信仰した結果、素晴らしいと思う事が実際に起こると、どのような過程や原因で起こったのかを調べようとしないで、即信仰のおかげであると信じて、より信仰が深くなる。片や、信仰しても効果が余り無ければ信仰が足りないからだとして、より信仰を深くする。
 例えば、信仰することによって病気が治ったという場合、それは信仰することによる心理作用が身体の生理機能等に変化を齎したり、気力や活力を高めたりするからである。このような変化は医学的に解明すれば、そんなに不思議な事でもなく、その過程や原因を容易に説明することが出来るだろう。健康状態や肉体的限界、思考能力や判断力などは心理作用によって極端な変化を生じることがある。ここで云う心理作用によって生じる変化が「観念の変化による物象面の変化」である。つまり、信仰の対象物が病気を治してくれた訳ではなく、観念の変化によるものだという分析である。
 この分析に対して、当事者はそんな単純なものではないと云い、周囲の人は信仰してそれだけの実績が上がっているのだから、それで良いではないかと云うだろう。そこで、そのことを検証したい。

 何かをやる場合、その効果や効用がなければ、普通は、やる意味がない、やる価値がないとされている。その逆に、効果や効用のあることに対しては、その価値を認めるのである。信仰したら良い成績をとることが出来た。信仰したら儲かって暮らしが豊かになった。このように、信仰することの意味を価値づけている。「だから信仰するのだ」ということになる。このように信仰することによって得られた結果、例えば、成績がよくなった、暮らしが豊かになった、病気が治った、商売が繁盛したと喜ぶのが、「物象面の変化を有り難がる」ということである。
 効果や効用がなければ意味がない。効果や効用のあることは意味がある、価値がある。そういう観念がしっかりと根づいているから、効果や効用のあることには弱く、すぐ引き込まれてしまう。

 AをやればBを得られる。このBが効果・効用である。即ち物象面の変化である。非常に簡単なことだが、日常生活を振り返ってみると、AをやればBを得られる、という式で日々、営まれていることが多いのではないだろうか。
 ○○先生に診て貰ったら治った、○○療法をやったら治った、○○様を拝んだら治った、そういう体験から、AをやればBを得られる、という観念が根づいていく。
 宗教で云えば、Aが信仰で、Bが御利益である。御利益のない信仰など誰も見向きもしないだろう。
 信仰のおかげで御利益がある。AのおかげでBがある。これが宗教である。
 Bである物象面の変化が著しいほど、それに引き込まれていく、盲目的になってしまう。
 医者が見放したような難病でも信仰によって治るという。それを聞いた医者は、「そんな馬鹿なことがあるものか」と否定する。しかし、実際に信仰したら治った。すると、とたんに医者も、その信仰の価値を認めてしまう。よくある事である。
 最も問題にしたいのは、ここである。
 何だか分からないが、こうなる。そして、凄い!と信じ込んでいく。それが危ないと思う。「何だか分からないが、こうなる」のは事実として認めたらよいが、そこで「凄い!」となるところが宗教の始まりである。効果・効用が大きいと、ますますそれを信じ込んで、引き込まれていく。そういうところへ「Aをやりなさい、そうすればBが得られますよ」とこられたら、Bを信じ込んでいる人なら間違いなく熱心にAをやろうとする。
 実際にAをやったらBが得られた。これに対して、おそらく多くの人が、事実、効果・効用があるのだからいいじゃないか、それのどこがいけないのか、と言うだろう。
 それでは、効果・効用があれば、「本当にそれでいいのか」と問いたい。
 例えば、地道な治療を続けてくれている医者はなかなか効果がないからヤブ医者で、身体をむしばむ麻薬ですぐに痛みを消すだけの医者が名医だと思い込むようなことはないだろうか。痛みを消さない医者より、いつでも痛みを消してくれる医者の方が本当に良いのだろうか。「何だか分からないが、効果がある」というようなことを、そんなに信じ込んでいられるものなのだろうか。

 信仰するという精神活動が観念の変化を齎し、その観念の変化によって現われてくるものを信じ込んでいく。これが宗教である。
 現われた物象面の変化、即ち効果・効用を、良いものだと信じ込んでしまっているところが宗教である。それは本当に良いのか、どこが良いのか、何故良いと云えるのか、そこを考えないと、ただ単にその人の価値観で勝手に良いと思い込んでいるだけかも知れない。これは、人数の問題ではなく、たとえ一億人の人が「素晴らしい」と讃えても、本当に良いかどうかを検討しなければ危なっかしくて仕方ないと思うが、どうだろう。

 信仰というと、拝んだり祈ったりすることのように思うかも知れない。しかし、信仰とはその方法ややり方ではない。目標を定める時点で、既に「ああいうのが良い」としていることが信仰なのである。一流大学信仰、一流企業信仰というのも同様である、目標を得るにはどうするかということには随分知恵を働かせ検討するだろうが、それ以前の目標そのものには何の疑いも持たない。一流大学を有り難がって信じ込む、一流企業を有り難がって信じ込む、それが宗教なのである。一流という御利益を得るためにいろいろな努力をする、それはみな信仰である。

 いろいろな例をあげてきたが、「物象面の変化を有り難がる」ということが少しは理解していただけただろうか。
 誰もが惹かれるような魅力的な目標を掲げて見せて、「事実、こうなるのですよ」と人を引っ張っていく。既にこの時点で信仰が芽生えている。その目標の実現のために、考え方や理論や方法を展開する。人を集め、知恵を集め、力を合わせて達成しようと呼びかける。みんなが協賛する。事実効果があれば絶賛する。効果が薄ければ信仰が足りない、効果があれば信仰のおかげだと、どちらにしても信仰から抜け出ない。だが、ちょっと待てよ、果たしてこれが本当に良いと云えるだろうか、何よりも先に出発点に立ち戻って、「何が良いのか」「何を良いとしているのか」と再思再考するときではないだろうか。