< 宗教から研鑽へ >
3.先ず人間の観念の不確かさを知る

『心はいろいろ変わっていくもので、それもこのまま認めたら良いと思うが、変わっていく事実、変わっていく心をどのように扱っていこうか。そこに一つの知性が必要だと思う。観念というものは知恵でいろいろ変えられるものだから、この観念の変化というものは非常によりどころがないように思う。』
『人間は観念が変わったら即変わる事実があり、事実現象界が変わらなくても考え方がコロッと変わることが毎度あると思う。心がころころ変わるという事は一応認められると思うが、違うかね。』

 

 人間そのものを科学的に分析しようとする際の目安として、物質肉体的な現象面と、精神的な無現象面とに分けて考えて見たらどうだろうか。唯物論か唯心論かとか、或いは肉体的な面と精神的な面とどちらが先かという議論をするのではなく、人間そのものをありのままに見たら、この両面があってこそ生きた人間と云えるし、別個に存在するものがくっついた訳でもないし、もともと切り離せない一体のものであることは確かだろう。
 ここでは、人間の精神面の中の「観念」について述べる。
 人間の精神面には、生理・知能・本能などの精神的機能がある。生理的欲求や知恵や感情愛情、或いは五感・六感・直感霊感などは、精神的機能の作用が現象化したものと云えよう。「観念」はこれら精神的機能と分けて扱う。
 「機能」は人間の生長に伴ってそれぞれに発達する。「機能」と「観念」は密接な関係にあり、「観念」は知能の働きによって形成されるものである。その形成過程は周囲環境・経験体験等により人それぞれであり、形成された観念は人それぞれに大きな違いのあるものと成り得る。右記の各種の精神的機能が作用し現象化するには「観念」が大きく影響する。又、形成された「観念」は各種「機能」の発達に大きな影響を及ぼす。

 人間は「観念動物」と云ってもいい程に、見るもの聞くもの考えるもの、みな観念の影響を大きく受けて生きている。
 物事を捉えて、これが事実だとするのも人間の観念である。事実そのものは人間の観念に関係なく存在する訳だが、それを事実だとして捉えるのは人間の観念である。時には捉え方が間違っていて、後から、本当の事実はこっちだったということもある。事実そのものは変わらないが、人間の観念で事実だと捉える捉え方は頻繁に変わり得る。好き嫌いの情などは良い例で、好きが嫌いになったり、嫌いが好きになったり、頻繁に変わるものである。自分以外の環境条件で思いが変わることもあるし、周囲は変わらなくても、自分の内面で急に変わったりすることもある。とにかく、内外のいろいろな条件要素が組み合わさって、その人の観念は常に変わり得るということを認めておくことが先ず必要である。
 良いとか悪いとかの判断、ああしようとかこうしようかという判断、みなそれぞれの中に培われた知識や経験などによる、その人その人の観念で判断しているのである。
 主義・主張・思想・宗教・見方・考え方など、いろいろな呼び方をするが、これらは人間の観念の部類に入ると思う。人間の観念というものを素直に認めていこうとするものである。人間の考えることは知恵からばかりでなく、多かれ少なかれその人に形成された観念の影響を受けている。

 古来より、人間は精神面の安らぎを求めて、それを得るために努力してきた。しかし、精神面の解明が充分になされないために、未だ心から安らげる人間生活、人間社会が実現していない。それに対して、現象面・物象面を整えることで、精神的豊かさ安らぎを得ようという考え方がある。機構制度の充実や物資の豊満により、これは部分的には効を奏しているやに見える部分もあるかも知れないが、安全確実な行き方ではない。
 そこで、私どもは根本的に行き方を変えて、先ず人間の観念の解明と観念そのものの正常化を最も重視している。観念の解明が進んでくると、人間の観念は内外の諸種の条件によって変わり易いものであり、環境や物象等外的条件に依らなくとも、自ら観念そのものを正常化していくことが可能であり、それが精神面での正常化と安定をはかる最も近道で確実であることが判る。

 観念論だ、精神論だ、いや宗教だ、科学だ、などと喧嘩したり言い合いしなくてもよいと思う。唯物論も、唯心論も、宗教も、科学も、何れの考え方も、真理そのものではなく、論であり、人間の観念であり、或る一つの人間の不確かな観念からのものであるというところを認めて、そこからスタートして、よりよく、より正しい人間のあり方を探っていきたい。
 人間の考えることは人それぞれだとしながらも、教育を重視し、誰もがそれを望むのも、教育という人為的な観念形成の必要性を知ってのことであろう。観念は変わり易いし間違い易いものである。これを素直に認めた上で、だからといって、どうにもならないものとしないで、人間の知恵で観念を上手に扱い、よりよき観念形成を確立することが、人類幸福にもっとも重大な課題であると思う。


『人間の観念は真理や事実とは別の動きをするもので、不確かなものである。』
『真理だと思う段階ね。絶対真理だと決めて動かさない。そこが異うと思う。殆どこれが真理だと思っても決めつけられない。そういう程度が人間で、それ以上は行けないと思う。』

 

 人間の観念は間違い易いものだということを認めると、絶対に正しいとか、逆に絶対間違いだとか、決めつけることは出来ないのが本当ではなかろうか。今はこうだと確信断定していても、もっとよく調べてみると違うかもしれない、というのが人間誰しもの本心ではないだろうか。今まで一〇〇万回やって一度も外れていないから、今度も必ず当たると思うかもしれないが、ひょっとしたら今度は外れるかもしれないというのが本心ではなかろうか。絶対に当たるとは誰も言いきれないのが本当ではないだろうか。
 過去のことで自分が直接見たこと、聞いたこと或いはみんなが確認していることでも、殆ど間違いないだろうとは云えるだろうが、絶対間違いないと云いきれるものではない。ひょっとしたら違うかもしれないというのが一点残るのが本当ではないだろうか。百人が百人ともその通りだと認めたことでも、後々になってから、その場にいた百人が百人とも誤解していたり、だまされていたりすることもある。
 人間の考えの範囲では「絶対に間違いないと云いきれるものはない」と思うが、どうだろうか。そんないい加減なことでは、世の中は何も進まないじゃないかと云われる方も多いだろう。しかし、事実実際、本当の本心は「正しいと思う」「間違っていると思う」「何々だと思う」というところ迄で、それ以上は言い切れないのが人間ではないだろうか。人間の観念の実態を科学してみると、「絶対だ」と断言できるものは何もないと思うが、どうであろうか。
 それを「絶対正しい」と云い切れるのは、人間の限界や観念界についての究明がなされていないからでないだろうか。そして、そこに宗教が発生する。

 多くの場合、それが事実だとか、正しいとか、間違いだとかを判定する場合に、その根拠を求める。その根拠によってその判定が証明されるとしているようだ。
 例えば、未だ解明に至らない、人間が持つ直感や霊感、或いは超能力というものがあるかも知れない。何故そうなるか判らないが、今のところ事実を以ってそれらの存在を証明しようとしている。事実そうなる、事実よく当たる、そういう事実をありのまま、そのまま受け取ればよいのだが、それでは済まなくなり、そういう未知なる力にのめり込んでしまう。とりこになってしまう。信じ込んでしまう。そういう例がよくあるようだ。
 一見良さそうなことでも、害など無いように見えても、信じ込むことで冷静な比較検討をしようとしなくなってしまう。他からの意見や批判に耳を傾けなくなってしまう。「そんなの嘘だ」と云われると、相手を責めて自分の正しさを主張するようになっていく。何故だろう。未だ解明に至らない未知なる能力の存在を否定しないで認めたらよいのだが、それを信じ込んでしまう人の観念には、大きな危険性をはらんでいると思う。

 自然科学でも宗教でも、云った通りになる、実証されているからといって、それを「間違いない」とするところに傲慢さが感じられる。云った通りになった、実証された、そういう事実をありのまま、そのまま受けとめることが重要だと思う。これを通り越して、間違いないとするから信仰形態に入り込んでいく。
 自然科学であろうと、宗教や未知なる能力であろうと、それを間違いないと信じ込んでいくところに大きな落とし穴があると思う。これ以上検討する余地はない、絶対間違いないと、果たして人間がそんなところまで云い切れるものなのだろうか。

 この点がはっきりしてくると、自然科学でも、人文科学でも、哲学の分野でも、宗教界でも、なかなか解明出来なかったことに糸口が出来てくる。人間とはどういうものか、人間とはこういうものかと素直に認めて、そこから分析解明していったら早いだろう。人間そのものを調べていけば難しくない筈だが、人間を調べないで自分達の主義主張を正当化しようとするから難しくなるのだろう。人間を考えてみると、身体があり、生命があり、観念・心があり、その他いろいろな分からない能力もあるらしいと、そのようにやさしく考えていったら決して難しくない。
 未知なるものや、分からないものは分からないでよいと思う。今は分からないとして次の段階で調べていけばよいのである。判らない事に直面すると、判らない部分を分離しないで、極めれば判る部分まで一緒にして判らないとしてしまう事で随分研究をストップしている。今の時点ではこれは分からないと、存在を否定するものではないが、何故そうなるものか、まだ分からないと、それでよいと思う。それ以上のこと出来ないことをやろうとするから、人間以外のものを持ち出して、人間の考えでは及ばないものがあると観念づけ、そう観念づけているのも人間の考えからしていることを忘れて、人間の考えで決めた空想的なものにのめり込んでいく。
 私達は人間であり、いろいろな能力もあるが、また間違いも多い。考えや心は変わり易いものである。そういう自覚に立ってみると、固定したものを持って教え導いたり、頑として動かさないで云い張るような態度には至らない筈である。