< 宗教から研鑽へ >
2.主観を入れない「聴く態度」からの理解を

『抗弁する態度ではなく、ただ聴く。相手がこういうには何かあるのだろうな、理解が出来ないのはまだ聴けていないのかなあという態度。』
『自分の判断で裁いて、やれないと思っている事でも、やれる事が沢山ある。聴いてみて自分の判断で決めるは、やはり自分の物指しで聴くから、相手の云わんとすることが聴けていないし、何度やっても出来ない。特に出来ないと思うことを聴くのが大事。主観の多い人間の聴く態度として、やれと云うからにはやれるかも分からない。自分もやろうという気持ちで聞くのと、自分で判断してと聞くのと、聴く態度が聴き方が違うと思う。やれないと思う事でも、そういう聞き方をすると案外やれるもの。相手の云うことを即実行やるのだと聞くのと、まあ聴いてみて良かったらやる、では仲々入らない。こうした聴き方は無意識の批判態度を払拭する道程的なもので、非常に聴き方が違ってくるもの。』

 

 宗教論議に「聴く態度」とは如何なるものかと思われる人もいるだろうが、これは人の話を聴く時だけに限らず、特に自分の意見と異なるものの中から本当のものを見出していく場合に、この聴く態度のあり方で対象物を理解していく事が大切かと思い、これを取り上げる次第である。
 本当に正しく生きていこうという願望があるのなら、それを探るために先ず誰の言うことでも、自分の判断をさしはさまないで、その通り聴いてみようとする態度が欲しい。聴きながら「そんな事はおかしい」とか「そんな事は出来ない」という時は既に聴けていない。聴いているつもりでも自分の判断で裁きながら聴いているので、もう聴いていない。自分の物差しで聴いていたら、何度言われても、「分かっている、同じことを何度も言うな」となる。相手がそう云うからには何かあるだろうな、として聴くと、「おかしい」「出来ない」と思っていることでも出来ることが沢山ある。
 どちらが良いか悪いか、出来るか出来ないか、分からない自分になって聴く。「やれと言うからには出来るかも分からない、やってみよう」という態度で聴くのと、自分で判断しながら聴くのとでは、聴く態度が大きく違うと思う。これは、主観の多い、いろいろの先入観念を持つ人間が「聴く態度」として、無意識の批判態度を払拭する意味において、こうした態度が大切である。
 数百キログラムの石を動かせと言われて出来ないと判断するのも、何か知識経験がそこに作用している訳で、何も知らなければ「そうか」「どうして」と聴くだけだろう。

 識者の云うことはその通り聴くが、子供や狂人の云うことはその通り聴かない。これも自分の判断からするもので、ある人の云うことなら聴くというのでは正しい「聴く態度」ではなく、信仰的態度であると指摘したい。有名紙で報道されていることだからと鵜呑みにするのも信仰的態度だと言いたい。
 聴く態度とは、何にも判断をさしはさまないで、どこまでも聴こうとすることであって、絶対服従とか、鵜呑みにするとか、云いなりに行うのとは異なる。自分と全く反対の意見が出た場合、すぐに自分の判断で「おかしい」とするのか、相手がどういう意図で何を云わんとしているのか、その通り聴こうとする態度なのか、これは大きな違いだと思う。決して誰の意見にも迎合せよと云っているのではない。
 そう考えてみると、自分と同じ意見が出た場合にはさらに注意が必要だ。自分の判断で「自分もそう思っていた、あなたもそうか」となって検討しないもので、本当に相手の真意を聴くつもりなら、自分の判断を入れないで聴く態度が必要である。

 肯定も否定もしないで、ただ聴く。その通りやろうとする気持ちで聴くが、鵜呑みにして信じ込んでしまうのとは違う。この稿を読んでいただく場合も、自分の判断を織り込んで、賛成だ反対だとしないで、たとえ賛成だと思っても、ひょっとすると真意は全く異なっていて、誤解して賛成だと思っていることもあるかと思う。

 あの人は良い人だ、良いことを言う、あの人は間違いない、と相手を誉めているようだが、それはまさしく自分の考えに合っている、気に入っているというだけに過ぎないのではないだろうか。相手の意見を自分の考えで裁き判断し、「おかしい」と決めつけて否定し反対するのと同様に、相手を「正しい」として合いづちを打ったり賞賛したりするのも、自分の考えで裁くということでは全く同じではないだろうか。
 自分の考えで判断して賛成意見の人達が集まった仲間や組織ほど不安定なものはない。今日多くの組織や団体が飽きもせず、派閥や分裂を繰り返しているのは衆知の事実である。賛成者が寄ってする集まりは一見良さそうに見える。しかしそれだけでは、いつまでも変わらない本当の仲良し、誰とも対立しない本当の仲良しは実現しないのである。

 「聴く態度」。誰のどんな意見でも肯定も否定もしないで、ありのまま、その通り聴こうとする態度。言う人の気持ちになって聴こうとするもの。この何の変哲もない平凡なことが、人と共に物事を考え行う場合の非常に大きな鍵になっていると思うが如何なものだろうか。
 後述の「科学的究明態度」を理解していただく上にも、今あなたの考えている事と合わないから駄目だとしないで、先ず何事にも自分の考えで裁き判断しない謙虚な「聴く態度」の必要性をここで特に強調するものである。