< 宗教から研鑽へ >
あとがき

 歴史的に振り返ってみても、宗教に関する論議や書物で語られているのは、宗教上の人物・宗教教団、そして宗教教義や宗教活動に終始しているものが殆どではなかろうか。それは、宗教とは宗教を信仰する対象物の事であるとの、根強い先入観念があるからだと思う。
 本書で述べてきた宗教の解明を改めてここに提示する。これに対し、世界中の宗教家・学者・科学者のみなさんに、考察と検討を加えていただきたい。
 宗教は信仰する人が存在してこそ、宗教たり得るものである。
 人間が自分の判断を「正しい、間違いない」と決めつけるところに信仰が生まれる。
 それが宗教である。
 要するに、「宗教とは何か」を一言で云うならば、宗教を信仰する人の観念のことであり、「これは正しい、間違いない、信じられる」と決めつけている、その人の観念のことである。
 これが明確になると、宗教で云う信仰の対象物が何であろうと関係ないということが分かる。信仰する人の観念で「これは正しい、間違いない、信じられる」と思えば、宗教になるのである。
 逆に云えば、如何なる宗教教義であっても信仰がなければ、その教義は宗教でも何でもない。一つの思想とか理論として扱えるだろう。事実、古くから伝えられる教書に述べられているものには、深い思索と究明のなされたものが多々あるだろう。それが宗教になるのは、その教義や教書を信仰する人の観念によるものである。
 以上の分析は特別なことではなく、既に宗教を語る人の中には、「宗教は信じるという行為によって成り立つものである」との見解を示す人も居るだろう。そして、この見解に対しては多くの同意が得られることだろう。この宗教の成り立つ最大の要素である「信じる」「信仰する」というものを掘り下げていくと、「自分自身の判断を正しい、間違いない、信じられる」と決めつけているに過ぎないことが分かる。
 たとえ、一億人が正しいと信じていることでも、自分自身の中で(観念で)「だから、正しい、間違いない、信じられる」と決めつけなければ、決して「信じる」「信仰」にはならないのである。「信じる」も「信仰」も、その対象物を信じたり決めつけたりしているのではなく、自分自身の判断を間違いない、として信じているのである。いくら衆をなして大勢の考えで一致したものでも、それを「だから間違いない」と判断しているのは自分自身である。
 そして、この「自分の考えを正しいと決めつける観念」が、如何に多くの紛争・苦悩・不平不満の原因となっているか、過去幾千年の人類の歴史を辿ってみても、凡ゆる間違いの原因は全て「自分の考えを正しいとして決めつける観念である」と云っても過言ではないと思う。
 いつ頃から人間にこのような観念がついたのか定かではないが、生まれながらにして持っているものではない、ということだけは確かである。周囲環境にこのような観念があり、それが生長に伴って、周囲からの影響で観念が形成されていくのだろう。

 人間が本当に人間らしく正しく生きていくには、そして人間同士が一切の争いなく仲良く溶け合って営む本当の人間社会を実現するには、「信じない観念」つまり「自分の考えを正しいと決めつけない観念」への転換が必要なのである。
 これは、本文中に何度も何度も繰り返して述べたことであるが、「信じないでおこう」「決めつけないでおこう」と意識する程度では到底実現できるものではない。
 本書の趣旨は、宗教の解明である同時に、この「観念の転換」にある。
 私どもは、この「観念の転換」についての実現方法を研究し、それを実践している。そして「信じない決めつけない観念」への転換の齎す効果が、人間生活・人間社会にとって如何に大きなものであるかを、具体的に人間社会生活という形で顕わし、実証している。
 本書を読まれて、宗教の分析、観念の解明、そして観念の転換に向けて、共に検討し研究して行こうとされる人が一人でも多く現われることを切望するものである。

 お便りあれ。                1995年11月