< 宗教から研鑽へ >
10.非理念観念から、理念観念への転換

『今まで自我没却・我執・私利私欲など、頑固我欲の害毒を指摘し、それの抹消を随分強調し多くの方法を講ぜられ努力を傾けてきたが、なかなか頑固観念や我欲が抜けなかった。人間同士の対立抗争の原因となり、凡ゆる事物の前進を阻んでいた原因、病気病身の多くの原因、或いは怒りさえも取り除くことが出来難い状態であった。この研鑽方式によれば、我執抜きは容易であり、怒りくらいは訳なく解決し、絶対に腹の立たない人の続々出来ることも当然のことである。』

 

 人間は、生まれて、子どもからおとなに成るに従い、周囲環境によっていろいろな観念を身につけていく。「こうしよう」という意志や「これがよい」という判定はその人の観念から出てくるものであるが、このように思考や行動など意図的意識的なものだけでなく、無意識的なものも観念から出ているのが非常に多いことを、再度ここで確認しておきたい。
 好き嫌い・楽しい嬉しい・悲しい辛い・美しい・醜いなどの心情や感情の変化にも観念が非常に大きく影響している。もちろん、本能的なものの現われとしての心の状態というものもあるであろう。生まれたばかりの赤ちゃんが泣いたり笑ったりするのは殆ど本能的なものの現われだろう。歳を経て観念が身につくに従って、観念の影響が大きくなる。
 一般的に心や感情の変化は「無意識的に出てくるもの」「自然に出てくるもの」としているが、心や感情の中でも観念の影響を大きく受けているものの場合は、観念によって容易に心や感情が変化する。例えば、「恐い」とか「嫌い」という感情があるが、これは観念から来ているものが多いと思う。生まれたときにはなかった筈のものが、何らかの観念づけによってこのような感情として現われているのだろう。
 「正しい」とか「間違い」という判定なら自分の観念でそう判定していることがよく分かるだろうが、心や感情の変化の中にもこれと同様に、観念による判定でその変化を来たしていることが多い。おそらく、泣いたり笑ったりという感情も観念によるものが多いだろう。何を喜ぶのか、何を悲しむのかというのもその人の観念次第であり、人によっていろいろである。
 ここで先ずテーマにしたいのは、「本能的なものと観念的なものとを分類する」ことである。この両者を混線して、「心」や「感情」、「欲求」や「欲望」などで観念から来ているものを忘れて「本能」だとしているものが少なくない。一旦「本能」だという見解が下されると、それは「あって然るべきもの」「どうしようもなく出てくるもの」などとして扱われるようになる。心や感情の変化の全てに対して「本能的なものと観念的なものとを分類する」ことは厳密には出来ないかも知れないが、よくよく検べてみると、「心」「感情」「欲求」「欲望」などと呼んでいるものにも観念的なものが非常に多いことが分かる。
 「愛する」ということは本来、もともと具わってあるもの、本能的なものと云えるだろう。人を愛する、動物を愛する、わが子を愛する、家族を愛する、伴侶を愛するなどなど人間には最も大きな要素であると思うが、この「愛する」ということが時と場合により、或いは相手の反応により、「愛する」でなくなったりするとしたら、そこでいう「愛する」は本能的先天的なものでなく観念的なもので、本来の「愛する」ではないと思う。誰にも本来的な純粋な「愛する」という本能はあるだろうが、そこに観念が加わって屈折したり歪曲していることが多々あると思う。「愛する」が、何かの理由によって「愛する」でなくなるのは、観念の影響が甚だ大きいと云えるだろう。
 嬉しいとか楽しいという感情もその人の観念による部分が大きいから、人によってはとんでもないことを嬉しいとか楽しいとか感じたりする。時には人に害を及ぼすようなことをそう感じる人もいるかも知れない。人間の観念が狂ってくると、そして嬉しいとか楽しいとか愉快とか満足とか、そういう観念的なものだけで進んでいくと、人間社会は大変な方向へ行ってしまうだろう。

 宗教で「煩悩」とか「懺悔」などと教えているように、あたかも本能的に或いは本来的に人間に具わってあるかの如く決めつけているものも多くある。
 支配欲・独占欲・所有欲・優越感・劣等感・闘争競争意識・嫌悪感・怒り・憎しみなどは、見事なほど世界共通とも云えるくらいに、人間には当然あるものだと決めつけて、そう教えていることが圧倒的に多い。宗教などでは、このような感情や欲望の害毒を説き、それを取り除くことによって幸福が得られるとして、信仰とか修行とか悟りとか解脱とか、そういうものでこれらを解消をしようとしているようである。
 しかし、何千年もの人間の歴史にずっと付きまとってきた「感情」や「欲望」であるから、これは人間には必ずあるものだ、と決めつけてしまうのはどうだろうか。本能的なものだとか人間には元々そういう欲望があるのだとか決めつけているところを、本当に科学的に分析してみたらどうだろうか。何千年も誰もが信じて疑わなかったようなことにも、大きな思い違いや間違いが発見されるかも知れない。

 「本能的なものと観念的なものとを分類する」ことが出発点になると思う。
 今まで、本能だ、性(さが)だ、煩悩だ、と云っているものを、今一度よく検べてみることだと思う。支配欲・独占欲・所有欲・優越感・劣等感・闘争競争意識・嫌悪感・怒り・憎しみなどは、人間が成長する過程で周囲環境から植え付けられた観念によるものである。その人の中にある観念が何らかの条件反射によって現象化した観念現象だと思う。
 観念の現象化を分析解明していくと、その現象の成り立ちがよく分かる。その成り立ちがよく分かると、取り除くことは容易である。感情だ欲望だというのはどうしようもない、と決めつけている間は、まさにどうしようもないかの如く思い込んでいる。取り除くのは容易でないと云い、不可能なことの如く観念づけて諦めている。
 しかし、観念によるものだということが判明すると、もともと無なかったものなのだということが分かる。もともと無いものだから、取り除くのが容易でないどころか、無い状態が当たり前だとなる。観念づけられた不自然な感情や欲望は無くて当然なのである。
 科学的究明態度「研鑽方式」で人間を科学すると、有害不要の不自然な観念は容易に払拭し、解消する。

 人間としての本能的な愛情や感情や欲求というものについては、また別の機会に述べたいと思う。
 感性や知性など生まれながらの能力を培い育てることも重要であり、正常な観念、即ち理念観念によって、正常な感性や知性を育みたいと念うものである。正常な感情や欲求と不自然な誤った観念によるものとを混線して、同種の本能的なものであるかの如く扱っている今日の現状や旧い既成概念は、今こそ根本的に見直すべきである。


『頑固である場合、謙虚な正しい考え方・態度に戻る一大革命である。頑固が謙虚になるということは、大したことに見えないかも知れないが、よくよく考えてみると、百八十度の転換で、た易いように見えてもなかなか容易でないもの。一旦信じこむと随分頑固になって、なかなか謙虚になり難いもので、日常の生活の中にも、全ての事々に頑固なキメつけの多いことを研鑽によって発見し、これが人間本来のあり方に大いなる支障混乱を起している原因であることが分かる。』
『研鑽方式によると、その頑固さもその弊害も次々と発見され、頑固は急速に減退し、人と人との対立抗争がなくなり、正しい社会が構成される。』
『こうして研鑽方式に考え方を革命した場合に、現在までに正しいかの如く思いこまれていたものが、続々とその間違いを発見される。キメつけの考え方から、キメつけのない考え方への頭脳革命ともいうべきものであろう。』

 

 「本能的なものと観念的なものとを分類する」ことによって、観念的なものは周囲環境から身についた後天的なもので、個人差があり、非常に流動的なものであることが判明してくる。これは非常に大きなことである。観念的なものを分類し明らかに出来るということ自体、つまり自分の観念を客観視できるということ自体、その人にとっての大きな「観念の転換」の始まりである。
 今こう思っている、こう考えている、こういう感情がある、これを欲しているなど自分の状態を冷静に受けとめられれば、それがなぜ、どこから由来したものか、考えてみることができる。今の自分の観念状態はたまたまの状態であって、他の要素が加わったら一変することだってあり得る。そう考えると自分自身の観念が流動的であり、また、それを見ている自分自身も流動的であることが分かる。

 「観念の転換など出来ない」と思っている人は、実際に自分の観念を自分で変えることが容易でないから、観念はどうしようも出来ない存在となり、観念に縛られたり、観念に振り回されたり、いわば観念の奴隷のようなものだろう。しかし、自分の観念に自分が縛られ、自分が振り回されるということほど、滑稽で愚かなことはないのではなかろうか。自分の感情や欲望に溺れたりするのも同様である。それは、自分で自分の首を絞めるようなものである。もっと具体的に言うと、腹を立てたり、引っかかったり、突っ張ったり、執着したり、反抗したり、絶対視したり、信じたりするのは、自分の観念の虜になって自分で自分を縛っている状態である。猿が豆の入った壷に手を入れて、掴んだ豆を放さないために手が抜けないようなもので、自分の観念で自分の観念から抜け出せないようにしているのである。豆を放しても豆は無くならない。手を開いて広い世界へ出て、もっと他のものも手にしてみることである。

 ここでテーマにしたいのが「非理念観念と理念観念の分類」である。
 「これが正しいのだ」と断定して信じる「観念の固定」は、自分の考えを持ち、囲い、他を容れない「所有観念」となる。この世の森羅万象には一瞬も固定がなく、そして誰のものでもないのが真理であろう。「無固定」の安定、「無所有」の広大さの中に生きることが、真理に則応しようとする素直な謙虚な本当の人間の姿だと思う。
 「固定観念」や「所有観念」は、理に反した人間の一人よがりの「非理念観念」である。頑固・執着・信じる・疑う・怒り・憎しみなどなど、何れも非理念観念が現象化したものである。
 研鑽によって観念を科学するとこれに気づいて、自分の観念を持たないで放して扱える無固定・無所有の「理念観念」になる。
 「非理念観念から理念観念への転換」、これが自分自身の大転換なのである。自分の観念に執われた狭い世界から、広大無辺の世界へ出る一大革命なのである。

 「非理念観念から理念観念への転換」とは「観念基盤」の転換のことである。観念基盤とは思考のベースであり、観方とか考え方とも云えるだろう。それの転換とは、持つ観念基盤から持たない観念基盤への転換ということである。別の表現で云えば、決めつける考え方から決めつけない考え方へ、信じる考え方から信じない考え方へ、頑固な観念基盤から謙虚な観念基盤への転換ということである。
 人には誰しも思いや考えがあるだろう。その思いや考えや観念の内容を云々するものではなく、それが固定した頑固なものか、固定のない謙虚なものか、という違いである。
 持たない・決めつけない「理念観念」とは、即ち自由自在の観念ということをも意味する。如何に考え抜き検べ尽くした結論でも、他から異論があれば即座に聴き入れることができる。既に決定したことでも、いつでも何回でも考え直せる。自分の意見でも人の異見でも同じように採用できる。有頂天になることも落胆することもない。裏切られたり騙されたり期待外れもないだろう。如何ようにも変えられる、自由で絶対無執着の柔軟な観念である。

 「宗教とは何か」を検べるために、観念の解明が重要であることを繰り返し強調してきた。
 宗教の歴史は人類の歴史と云われるくらいに、人間の観念の或る一側面が如実に現われたものだと云える。観念を解明すると自ずと宗教が解けてくるのである。宗教を科学するには、観念を科学するには、先ず科学する人の観念に断定や執着のないことが必要である。固定観念や所有観念をそのままにしては真に科学することは出来ない。
 「非理念観念から理念観念への転換」が絶対不可欠である。この観念の転換を「考え方の革命」とも呼んでいる。持つ観念から持たない観念へ、決めつける観念から決めつけない観念へと、ひとたび転換されれば決して後戻りしないものである。本書の読者に於いてこの観念の転換がなされてこそ、本書の価値が発揮されるものである。持つ観念・決めつける「非理念観念」をそのままにして、如何に理論を理解されたとしても、何ら事態に前進を見ることが出来ないのは云うまでもないことである。

 また、読者の中には、人間は観念だけではない、そんなに理とか理念ばかりで杓子定規に割り切れるものではない、観念以外にもっと重視することがあるなどの言い分もあるであろう。ただ、人間の思考や言動は観念の影響が大きく、それは即ち人間生活・人間社会にとって観念の影響が大きいことを意味し、人間自身の観念が正しくあることが如何に重要であるか、そして目指すべき「正常な観念」と、「宗教的観念」との相異など、これまで述べてきたことによって、ある程度理解いただけるのではないかと思う。
 もちろん、観念以外の人間の考えの及ばないもの、知恵・能力・直感・霊感・生命・本能的な心・本能的な感応などや、それらと物象面との関連なども含めて、総合哲学的に検べないと、人間そのものを科学することにはならない。
 私どもは、このような人間の考えの及ばない、認識・感知し得ない分野も含めて深く究明することを志すものであるが、これを検べ科学するのは人間であり、人間の意識・思考、即ち観念によるところが頻る大きいから、自然科学であっても人文科学であっても、有形・無形・現象界・無現象界の何れを研究・科学する立場の人も、先ず自分自身の観念が如何なるものかをよく把握することが何よりも優先されるとの観点から、人間の観念について言及してきた。
 観念についての異論があるかも知れないが、早計に判断を下さないで、本書を繰り返し読んで、何を云わんとしているかをよく汲み取っていただきたいと願う。
 観念以外についての重要性を説くご批判もあるかも知れないが、その分野については機会を改めて別稿に依るものとしたい。

 本書ではどの項目でも、人間の観念について度々述べ、観念という言葉を何回使って来たことか。何回も同じような言葉を繰り返すからくどく感じて最後まで丁寧に読んでいただいた方は何人いるだろうかと思う。
 一回読んだだけで理解される人は既にそういう境地にある人であり、何回か読まれて、「なるほど、そうか」と観念の解明が出来ても、理解出来たということと当人の観念が転換することとは別のことである。つまり、自分の考えを突っ張らない、誰とでも溶け合える自分、旧来の固定観念・常識観念に執着せず、絶えず「本当はどうだろうか」と考え正しく生きようとする自分への「自己革命」がなされなければならないのである。
 よしんば、理念観念への転換を図ろうとしても、現在の社会常識の観念界で生活しながら当人だけが観念を転換することは、容易であって容易でないだろう。それには「観念を転換する機会」が必要であるということを、改めてここで強調しておきたい。