< 宗教から研鑽へ >
1.真理に則応した人間の観念「理念」とは

『真理は正しい。正しい理を真理という。人間の考えは真理に則応した分のみ正しい。』
『宗教では仲良く楽しくやっていたら幸せだというが、理念真理の世界までいってこそ、本当の幸せに到達されると思う。理念で本当の幸せを見出して、それを社会一般化してこそ本当だと思う。観念で愉快だ、楽しいですよ、と云っていても、理念で調べると、自分だけのあやふやなものが出てくる。』
『信仰と研鑽、共同と一体、男女夫婦のあり方や、宗教の問題も、この理念からいった方が早いと思う、どれほど早く真理則応の、仲良く楽しい、よりよく、より正しい生活が出来るか、考えていったら難しくないと思う。真理に則応する現在ただ今、それの連続かと思う。』
『観念に二つある。理念から来る観念と、理に反してもよいとする観念。理念、理に立った観念と異い、ただ無知な観念たるや、非常に危ない。』

 真理を探究しようとする人間の欲求には際限がない。人間の真の幸福、世界平和と安定した社会、これは一時的とか感覚的なものでなく、また、そこに住む人の観念的なものでもなく、間違いのない、正しい、確たるものを本当は誰もが望んでいるのではないだろうか。それ故に、人知を駆使して真理を究明し、人間自体や人間社会に適用しようとするのは人間としての当然の姿であると思う。
 ここでいう「理念」とは、「真理に則応した人間の観念」のことである。真理を究明し、その真理に則応した観念であることが、真理に則応した間違いのない正しい人間生活、人間社会に不可欠だからである。みなが個々に、それぞれの価値観で、欲求を満たさんとする姿は、あまりにも不確実で不安定であろう。一時的に欲求は満たされても、それが永続性のあるものか、本当のものかどうかは判らない。
 仲が良くて、健康で、物も豊かであれば、それで満足だと思う人もあるだろうが、それが一時的なものであったり、後にまるで逆の現象になることもあるのだから、今が満足だといって安心しては居られない。本当の仲良し、本当の健康、本当の豊かさでなければ、揺るぎない安定した社会とは云えないだろう。

 真理というものは、人間があってもなくても存在するもので、そこから考えると、人間はどういう位置にあるかが判ってくると思う。その位置から人間を考えて人間の本分は何だろうと、本当に謙虚であってこそ、本当の社会が出来ると思う。人間中心的な欲求や、それぞれの主義主張で片づけようとする生き方では、真理に則応した正しい社会や暮らしは実現出来ないだろう。
 観念的・感覚的なものでなく、たえず真理に則応する現在ただ今、それの連続かと思う。真理則応というと難しく聞こえるかも知れないが、要は「正しい」ということであり、それは人間の勝手な「正しい」の解釈でなく、「真理に則応することを正しい」とし、より正しく暮らしていこうとするものである。「正しき」を見極めて、より正しく生きていこうと暮らしている人は意外に少ないと思う。人間の考えを振り回さないで、仲良く楽しい、よりよく、より正しい、真理則応の暮らしをしていこうというものだが、どうだろうか。
 そのためには先ず、真理を探究し、人間社会の本当のあり方を探り、その真理に基づいて観念づいたもの、これが「理念」というものだろう。そして、その「理念」で真理に則応した社会をつくり、暮らしていこうとするものである。
 ヤマギシズムでは、この「理念」という観念を、観念をもつ人間にとって最も大きな要素として取り上げて非理念観念と分類している。宇宙自然界には真理があり、そこに生きる人間には観念がある。これは誰もが認めるところだろう。なれば、真理に則応した観念で生きないと、真理に拘束されて、自由で快適な生活が出来ない。
 一般にはあまり馴染みのない「真理則応の観念」であるこの「理念」に着目して、本稿を読んでいただきたい。