< 小論 と 解説 >
「宗教と科学」の研鑽にむけて (1995/7/19)

 何かと宗教についての論議が取り沙汰される今の社会情勢において、ヤマギシズムとしての宗教観を明確に打ち出すときではないだろうか。ヤマギシズムの真相を検べようとしない人の中には、ヤマギシズムも宗教でないかと憶測する人もあるが、だからといって「ヤマギシズムは宗教ではない」と弁明する程度の消極的なものでなく、この際、時世を利用してヤマギシズムとしての宗教に関する見解を明確に世に打ち出したいものだ。
 宗教について語るものの責任として、先ず宗教とは何か、どういうものを宗教と云うのか、それを明確にする必要がある。私達が取り上げる「宗教」とは、宗教教団的な宗教だけでないから、先ず「宗教定義」を明らかにし、それに叶ったものを一応、宗教あるいは宗教的と位置づけたいと思う。

『私は、断定、即ちきめつけたことを正しいとし、或いは勝れているとして、それの解剖・検討・批判をゆるさないで、教えようとするものは凡て宗教だと思っています。』
『科学するといったら一つ一つ分析して検べていくもので、何かに立脚してとなったら、もうそれは科学でなく宗教だろうね。』

 思いや考えの中に固定したものがあれば、それは宗教といえるだろう。
 いくら深く謙虚に考察・検討しているようでも、そのどこかに決めて動かさないものを持っているならば、科学とは云えず宗教だろう。
 「宗教なんて自分には無関係だ」と思っている人も、研鑽態度を失えば、その瞬間から直ちに宗教的生活になり、イズム生活でなくなるのだから、「宗教と研鑽」というテーマは誰にとっても重要だと思う。研鑽は真の科学。一瞬たりとも停頓のない宇宙自然界の理に則応するには研鑽しかない。如何に、理念の通りにやっているつもりでも、「何かに立脚して」となっていたら、さあ大変だ。
 科学者であって本当に科学者でない、検べようとして決めつけていく。
 人間が正しく生きられるか否かは、ひとえにこの研鑽か宗教かにかかっていると思う。未だ誰も手掛けていないであろう、この宗教の解明を打ち出すことは、人類にとっての一大偉業と云えるだろう。優秀な学者やその他見識のある人の中から、これに目醒め注目する人がきっと現れるだろう。
『前提があってもなくても、態度が問題で、』
 自らの宗教的態度に気付き、そこを謙虚に検べていく態度になれば、本当の科学者と云えるわけで、絶対正しいとされている学説や教義でも、それを間違いないとしないで、間違ってあるかもわからないとして科学していくから、宗教は自然消滅する。
 宗教を科学する。宗教をやっている人が研鑽態度になって宗教を科学すると、宗教が宗教でなくなっていく、宗教を科学すると、宗教を分析して解明すると、宗教が解体する。